[#表紙(表紙.jpg)] フーコー入門 中山 元 目 次      序[#「序」はゴシック体] 現在の診断[#「現在の診断」はゴシック体]         ——フーコーの方法  第1章[#「第1章」はゴシック体] 人間学の〈罠〉[#「人間学の〈罠〉」はゴシック体]  第2章[#「第2章」はゴシック体] 狂気の逆説[#「狂気の逆説」はゴシック体]       ——『狂気の歴史』『臨床医学の誕生』  第3章[#「第3章」はゴシック体] 知の考古学の方法[#「知の考古学の方法」はゴシック体]       ——『言葉と物』『知の考古学』  第4章[#「第4章」はゴシック体] 真理への意志[#「真理への意志」はゴシック体]       ——『監視と処罰』  第5章[#「第5章」はゴシック体] 生を与える権力[#「生を与える権力」はゴシック体]       ——『知への意志』  第6章[#「第6章」はゴシック体] 近代国家と司牧者権力[#「近代国家と司牧者権力」はゴシック体]  第7章[#「第7章」はゴシック体] 実存の美学[#「実存の美学」はゴシック体]       ——『快楽の活用』『自己への配慮』  終りに[#「終りに」はゴシック体] 真理のゲーム[#「真理のゲーム」はゴシック体]     注     あとがき [#改ページ]   【序】[#「【序】」はゴシック体]   現在の診断[#「現在の診断」はゴシック体]   ……………………   フーコーの方法 [#改ページ]  ミシェル・フーコーはつねに〈現在〉の哲学者であった。〈現在〉の哲学者とは、たんにアクチュアルな問題を分析し、検討する哲学者であるだけではない。〈現在〉の意味を分析し、その成立の根拠と背景を考察し、この社会で生きることの意味と問題を問い直す哲学者である。フーコーはこのことを繰り返し強調している——「わたしが試みているのは診断すること、現在の診断を実行することです。それは現在の〈われわれ〉とはどのようなものであるか、現在われわれが語ることには、どのような意味があるかを明らかにすることです(1)」。 〈現在〉とはなにか——これは哲学の古いテーマであると同時に、ある時代的な刻印をおびたテーマである。ヘーゲルはかつて『哲学史講義』において、われわれが当然と考えるものも、その背景に膨大な歴史と事実を蔵していると語ったことがある——われわれはアメリカについて直接知ることができる。しかし直接的にみえるこの知は、極めて媒介されている。わたしがアメリカに立って足元の土を眺めることができるためには、そこに旅行しなければならないが、そのためにはコロンブスがアメリカを発見していなければならず、船が造られていなければならず、航海の術が明らかになっていなければならず、それまでの人間の一切の知が前提されていなければならない。  ヘーゲルがここで強調しているのはすべての知の媒介性であるが、〈今〉と〈ここ〉というテーマが大きな問題となったことは、近代という時代の一つの特徴であった。それ以来われわれは、人間の知というものは、一回限りの歴史の膨大な蓄積を前提としていることを認識するようになった。  われわれが語るすべての言葉、われわれが手にするすべての道具、それらは単純なものにみえても、地球の歴史における長い蓄積によって初めて可能となったものである。そうしてみると、われわれの目の前にあるこの一冊の本は紙の集積ではなく、厖大なテクストの総体であり、その背景に紙と文字が可能になり、発明され、利用されてきた人間のすべての歴史を隠しもっているのがわかる。  それをたとえば書物の背後に潜む〈地層〉のように考えてみよう。するとこの〈地層〉の歴史的な構成によって、はじめてこの書物が、この形態で、この具体性において実現されたことが理解できる。フーコーが〈考古学〉というテーマで考えているのはこのことである。フーコーは同じ文章で次のように語っている。「われわれの足元を掘り下げること、それがニーチェ以来の現代の思考の特徴です。わたしはその意味で自分が哲学者であると思います」。  しかし同時に、この〈現在〉への問いは、一つの時代的な産物でもある。こうした問いが可能となるためには、一つの歴史を必要とし、問いの主体が生まれる条件が整うことが必要だったのである。問いの対象の問題が、問いの主体の問題を孕むようになったのは、近代という時代の一つの特徴である。フーコーは、われわれの知の対象だけではなく、こうした知を可能にするわれわれ自身、すなわち知の〈主体〉が一つの歴史的な累積の産物であることを強調した。このような問いかけを行うことができる〈われわれ〉とはだれか、「まさしくこの瞬間において」存在するこのわれわれとはだれか。この社会の中で生き、欲望を抱き、人々と関係を結んでいる〈われわれ〉とはだれか、あるいは社会で生き難く感じ、社会を変えてゆくにはどうすればよいかと模索する〈われわれ〉とはだれか。  フーコーはこのわれわれという〈主体〉に向けられた考古学を〈系譜学〉と名づけている。真理とはなにかという問いを、真理を語る者はだれかという主体についての問いに転換することによって、この〈系譜学〉という概念を提示したのはニーチェだった。フーコーはこのニーチェの問いにならって、〈系譜学〉という方法で、知の客体の歴史性ではなく、知の主体の歴史性を問おうとする。  フーコーは自分は哲学者であるよりも、〈現在〉を診断し、〈現在〉の意味を問う者であると考えていた。フーコーがつねに問題としていたのは、現在に生きることの意味であり、現在において思考する主体としての〈われわれ〉の位置である。  現代のわれわれの思考を規定している思想の枠組みを掘り起こす〈考古学〉的な試みにおいても、現代のわれわれが主体としてありうる根拠と条件を探りだす〈系譜学〉的な試みにおいても、フーコーがつねに問題としたのは、現代に生きることの意味であり、現代において思考するということの意味であった。  本書では、思考するとは、自分の生きることの意味を問うことだと考えていたフーコーの思考の軌跡を追いながら、フーコーが提示した問題と、その問題を分析するために使った思考のツールを取り出してみたい。それはフーコーという一人の思想家の思想の「棚卸し」をするためではなく、〈現在〉に生きるわれわれが、自分たちの生き方を問い直し、社会を変革していく武器とするためである。  まず第1章では、初期のフーコーが直面した問題を取り上げる。フーコーがどのような問題を抱えて哲学者となってゆくか、フーコーという思想家の誕生の劇《ドラマ》を考えよう。このドラマのうちにすでにフーコーが一生をかけて解いていく問題が隠されているのである。  第2章では『狂気の歴史』を中心に、フーコーが自分の問題を、理性と真理の歴史的な問いとして自覚していく経緯を取り上げる。  第3章では考古学の方法によって、西洋の知の歴史的な条件を分析した『言葉と物』を検討しよう。  さらに第4章では、ニーチェ的な系譜学の方法を採用することで、真理と権力が不可分なものであることを明らかにした『監視と処罰——監獄の誕生』を読みたい。  第5章では権力の問題が性《セクシユアリテ》の問題として検討されるようになる『知への意志』を分析する。  第6章では、性《セクシユアリテ》の問題を手掛かりとして、生の権力がどのように社会を支配するようになったかを考えてみたい。  第7章では、フーコーの最後のプロジェクトである統治性のプロジェクトを取り上げる。このプロジェクトについては、最後の著書となった『快楽の活用』と『自己への配慮』を除いて著書がないために、あまり知られていなかったが、フーコーが最後まで一貫して自分の立てた問題を追い続けていたことを明らかにしたい。このほどガリマール社から、著書として発表されていないフーコーの論文やインタビューが、四冊の『著作集』として刊行された。この『著作集』なしでは、本書を書くことも、フーコーの問題の一貫性を明らかにすることもできなかっただろう。  最後の章では、「最後のフーコー」の姿を描きながら、〈真理のゲーム〉として提示されたフーコーの倫理的な思考の姿を取り上げる。  本論に入る前に、フーコーの一生を簡単な年表で確認しよう。下の欄には主な著作と、フーコーが構築した主要な概念を示してみた。 [#年譜(年譜.jpg)] [#改ページ]   【第1章】[#「【第1章】」はゴシック体]   人間学の〈罠〉[#「人間学の〈罠〉」はゴシック体] [#改ページ] †自己という謎[#「†自己という謎」はゴシック体]  フーコーは、図書館と書物の比喩が特に好きだったようである。多くの書物が並んでいる図書館は、フーコーにとっては人間の幻想が棲息する濃密な場所のようにみえたらしい。「空想的なものは、書物とランプの間に棲まう。幻想的なものはもはや心の中に宿るのではなく、自然の突飛な出来事の中にあるのでもない。それは知の正確さの中から汲みあげられてくるのであり、その富は文書の中で読まれるのを待っているのである。夢みるためには眼を閉じていてはならない。読むことである(2)」。フーコーにとって〈読むこと〉は、自分の幻想を羽ばたかせ、人々の幻想を解読する営みだった。  しかしフーコーにとってもっとも読みにくいテクストは、〈自己〉というテクストだったのではないだろうか。フーコーはあるインタビューで幼時を回想しながら、いつも一つの悪夢につきまとわれていたと語っている。それは読めないテクストの悪夢である。 [#ここから2字下げ] わたしには幼児からつきまとっている悪夢があります。目の前にあるテクストが読めないのです。あるいはそのごく一部しか解読できないのです。わたしは読むふりをしているのですが、それがでっち上げだということは自分でもわかっているのです。すると急にテクストがすべてぼやけ、読むこともでっち上げることもできなくなるのです。そして喉がつまり、目を覚ますのです(3)。 [#ここで字下げ終わり]  フーコーは読むことに対するこだわりを「われわれが知ることのない夜に向かって傾《かし》げた顔」と表現しているが、このフーコーの〈悪夢〉は、ある意味でフーコーの一生の苦闘を象徴するようである。フーコーがここで苦闘しているのは、聖なるテクストに隠された意味が解読できないからではない。テクスト自体が読まれることを拒んでいるからである。それではフーコーの夢の中のテクストはなぜ読めないのだろうか。それはテクストそのものに脱落があるからというよりも、読もうとする主体の中に〈夜〉が存在するからではないだろうか。この読もうとする主体の中に存在する〈盲目性〉に、フーコーは固執し続ける。  眼の構造には、眼自体を見ることができないという盲点があるが、読むという行為にもある読み得ない〈盲点〉が存在する。それが意識されないことによって、そもそも読む対象として構成されず、気づかれない領野が存在するのである。フーコーがここで読もうとしているテクストは、その後一生の間フーコーが探求を続けたテクストであると同時に、読もうとする主体自体のテクスト、あるいはここではフーコー自身のようにも思われてくる。フーコーはあたかも読み得ないテクストでもあるかのように、自らの〈夜〉に眼を凝らしている。そして問い掛ける——このテクストを読み得ない〈わたし〉とはだれか。読みえないテクストに憑かれた〈わたし〉はだれか。  ディディエ・エリボンは『フーコー伝』において、自己の性的な嗜好と、家族や社会の期待の狭間で葛藤に悩まされる学生時代のフーコーをまざまざと描き出している。フーコーは何度も自殺を試みるほどに、ホモセクシュアルという自己の性的な欲望と、それを忌まわしく思う意識の葛藤に悩まされていたという。フーコーは欲望に駆られて夜の巷にでかけては、自分の部屋に戻って「恥の思いに何時間も憔悴し、病み苦しみ、意気消沈していた」と伝えられる。  フーコーを最初から悩ませたのは、この自己という不思議な謎、自己という書物への尽きない問いだったように思われる。身体をもち、欲望に駆られる自己が、ある時、読み尽くすことのできない書物であるかのように、謎として登場する。  フーコーの最初の問いから、問う主体は、問いの客体そのものであり、問いの内容が問いの客体に完全に規定されている奇妙な生き物であった。テクストを読もうとする主体自体が、謎に満ちたテクストで織りなされているとしたら、テクストを読むという行為、人間について分析するという行為は、最初から逆説に満ちているのではないだろうか。フーコーは、謎に満ちたこの自己への問いからついに離れることがなかったようである。  心理学と哲学の学位をとって大学を卒業したフーコーは、哲学教師の道を選ばず、この人間という謎を追い求めるかのように、心理学の道に進む。そして研修に入ったパリのサンタンヌ病院では、「医者の世界と患者の世界の境界を行き来していた(4)」。医者という特権的な地位をもっていたわけではないし、患者としての「悲しい状態」にいたわけでもなかった。このような曖昧な位置にいたフーコーがなによりも関心をもったのは、心理学という学問の特別な性格と、精神病院という制度そのものだった。そしてフーコーはやがて、この二つの問題を切り離すことはできないことを認識するようになるのである。 †心理学の科学性[#「†心理学の科学性」はゴシック体]  この当時のフランスの心理学は、実験心理学を中心とした「科学的な学問性」を強調する学問だった。心理学を専攻したフーコーが最初に尋ねられた質問は、〈君はビネのような科学的な心理学者になりたいかね、それともメルロ=ポンティのような心理学者になりたいかね〉という問いだったという(5)。ビネは知能テストの創始者として知られるが、この知能テストに象徴されるのは、「測定し、数え、計算する」科学的な心理学が真の心理学であるという考え方である。そして当時の心理学の学界では、現象学から人間の心身関係についての思索を展開したメルロ=ポンティのような「思考し、反省し、次第に哲学へと向けて目覚める」哲学的な心理学は、偽りの心理学であるというのが一般的な考え方だった。  この「科学的な」心理学に対するフーコーの疑問を象徴する印象的なエピソードがある。当時サンタンヌ病院で実務に携わっていた二五歳のフーコーは、父親と同じように医者になることを目指していた。医者の卵として、熱意と理想に燃えていた(とフーコーは皮肉っぽく当時の自分を振り返っている)。その頃、二二歳の一人の患者と親しくなった。ロジェという名前のこの患者は、自己破壊的な傾向があるために両親から入院させられた患者で、薬物治療を受けていた。しかし治療の効き目はほとんどなく、本人は一生病院から出られないという恐怖と苦悶に悩まされていた。通常は知的で、ものわかりのよい患者であるが、荒れ始めると手がつけられなくなった。次第に精神状態が悪化し、医者たちはなんらかの手当てを施さなければ、この患者は自殺するに違いないと結論した。その結果が、「この知的で卓越した若者、しかし抑えようのない若者に対する前頭葉ロボトミー手術(6)」であった。  映画『カッコーの巣の上で』を思わせる結末であり、フーコーは「いくら時が経っても、あの苦悶に満ちた顔を忘れることができない」と悲痛な口調で回想している。『カッコーの巣の上で』では、病院の機構と治療方法に批判的な目をもつ患者にロボトミー手術が施され、患者は自己の意志を失ってしまうのだった。この「科学的な」手術は、精神分裂病者などに対して、前頭葉にいたる神経回路を切断するものであり、脳に回復不能な打撃を与え、予測できない後遺症が発生する。現在では行われなくなっているが、当時はアメリカを中心にさかんに利用されていたという。しかしこの手術は精神のプロセスの障害に対して、身体に操作を加えて対処するという方法であり、心理学と精神医学のもつ矛盾をあからさまに露呈するものだった。  自分が精神科医にならなかった理由を説明するために語られたこのエピソードは、当時フーコーが精神医学に感じていた問題を浮き彫りにするものである。  フーコーがここで直面した問題は、二つの問題が入り組んだものだった。一つは心理学と精神医学という科学の科学性の問題である。これらの学問は、その「科学性」によってこのような野蛮な手術を行う権利を主張するのであり、この科学性がなければ、当時のヨーロッパでまだ流行していた民間治療や〈似非科学〉とまったく同じものになってしまう。それでは、心理学と精神医学が主張する「科学性」はどのようなものか、それはどのようにして正当化できるか。  もう一つの問題は、精神病院という制度は、この学問の科学性の主張においてどのような役割を果たしているのか、その制度はどのようなメカニズムで心理学の科学性を支えているのか、ということである。 †ヌエのような学問——心理学[#「†ヌエのような学問——心理学」はゴシック体]  まず心理学と精神医学の問題から考えよう。フーコーが語ったこのエピソードは、心の問題を身体の問題として処理するものであり、心理的な疾患を器官的な疾患の治療で解決できると考えるものである。フーコーは、ここには精神医学における方法論的な混乱があるのではないかと考えはじめた。精神医学は真の「科学」としての地位を獲得しているのだろうか。心の問題を身体の問題として解決することは、デカルトの心身二元論を、悪しき一元論で解決することにならないだろうか。精神医学は現在の科学の行き詰まりを象徴するものではないだろうか。フーコーにとっては、精神科医となることは、この科学の行き詰まりを解決せずに、この誤謬をそのままに生きることを意味していた。  フーコーは、この問題を〈解決〉するためには、心理学の科学性そのものを問題とする必要があると考えるようになる。心理学はどのような根拠から「科学」を名乗るのか。心理学という学問は、「科学」であるためには、なにか基本的な条件を欠いているのではないか。  この問題を考察したのが、一九五四年に出版された『精神疾患と人格』の第一部である(邦訳が出ている『精神疾患と心理学』はこの書物の大幅な改訂版で、第二部はまったく書き替えられている)。この書の序文でフーコーは、身体と精神に対しておなじ概念を適用しようとしたために、心理学で大きな混乱が発生していると指摘した。当時の心理学において、精神病理学と身体病理学の上位にメタ病理学というものがあり、このメタ病理学は、器官の疾患と精神の疾患の両方に対処できると考えられていたことをフーコーは批判する。 [#ここから2字下げ] われわれが示したいのは、精神病理学の根はなんらかの〈メタ病理学〉に関する思弁の中に求めるべきではなく、人間自身についての考察そのものの中に求めるべきではないかということである(7)。 [#ここで字下げ終わり]  この書物の中でフーコーが示したのは、精神の病理と身体の病理というものは、おなじ概念に従って理解することができないこと、この二つの病理は異なる原因と異なるメカニズムによって発生するものであり、異なった治療方法が必要であること、すなわちメタ病理学というものは存在しないことであった。もしも身体の病理についての学(生理学と医学)と精神の病理についての学(心理学)を統一するメタ病理学が存在しないのであれば、人間の心理と生理的な現象は独立して考察しなければならなくなる。そして心理的な疾患(精神疾患)に、器質的な現象に基づく処置を加えるロボトミーのような「治療」は、その「科学性」を疑われることになる。  当時の精神病院で採用されている治療方法は、心理的な疾患と器質的な疾患に対する治療を混同するものであった。この混同を告発する口調には、精神疾患の患者に対するロボトミー手術によって強い印象を受けたフーコーの苦い思いがこもっているようであるが、これは生理学のモデルに従って人間の心理を考察するのが真の心理学であるという「科学的な心理学」が、方法論的な誤謬に陥っていることを確認するものだった。  フーコーは〈メタ病理学〉を否定しながら、当時の精神病院で行われていた一般的な治療方法を否定したことになる。それでは精神疾患はどのように治療すべきなのか。人間の精神のプロセスの異常は、どのようにすれば解決できるのか。  フーコーはこの問題は、生理学とは独立した心理学固有の問題として解く必要があると考える。そのためにフーコーは、人間の心理的な疾患の原因を、主体的な側面と客体的な側面に分けて考えようとした。まず主体的な側面においては、フーコーは精神疾患にかかった患者を人間の実存として考察しようとする現象学的な分析に注目した。これは精神疾患を人間の実存と自由の問題として分析しようとする方法である。一方で客体的な側面においては、患者が社会の中でどのような状況において疎外され、どのように物象化されているために、精神疾患にかかるのかという観点から分析しようとした。これは当時ソ連で支配的だったマルクス主義的な心理学の流れを汲む分析である。  しかしそれでは、人間の実存を理解するための現象学的および存在論的な分析と、疎外論に依拠したマルクス主義的な分析をどのように統一するか。これが「科学的な心理学」に代わるフーコーの「真の心理学」のプロジェクトの課題である。 †人間の自由と実存——『夢と実存』序文[#「†人間の自由と実存——『夢と実存』序文」はゴシック体]  フーコーは、現象学的な精神病理学を主唱したスイスのビンスワンガーの『夢と実存』のフランス語版に寄せた長文の序文で、まず人間の自由という観点から心理学を分析する。この序文でフーコーは、ビンスワンガーの実存分析は、「その原理そのものと方法が、最初からその対象である人間、というよりは人間存在の比類ない特権だけによって規定されている」ものであり、一つの〈人間学〉を前提とすると高く評価していた。  ビンスワンガーの方法は、人間の疾患を自然科学的な方法で治癒できるという考え方に反対し、精神の疾患は器質的な欠陥であるよりも、世界に対する患者の態度のために発生すると考えるものである。患者がなんらかの理由から、人々の中で自己を表現することができなくなると、それが疾病として表現されると考えるのである。疾病も一つの表現であり、患者の苦悩の訴えである。患者は自分の妄想にしがみつこうとするが、それは「病」であることを半ば自覚しているのであり、それを隠蔽しようとしているのである。それはシジフォスのような空しい努力であり、この状態を放置しておくと、それはいつか必ず破綻してしまう。その破綻は自殺であるか、妄想の世界に完全に取り込まれることである。  そこでビンスワンガーの精神療法は、患者の疾病として表現された訴えを手掛かりに、患者を私秘的な世界から共通の世界に連れ出すことを目的とする。医師は患者が閉じこもっている「自己に固有の世界と共通の世界の間の仲介者(8)」として、患者を夢から覚醒させ、共通の世界に連れ戻す道案内の役割を果たすのである。  そのためには医師は、患者の私秘的な世界がもっとも極限的な形で表現される妄想を分析しながら、患者が感じている不安を明らかにするようつとめる。その手掛かりとなるのが「夢」である。「夢」は妄想とは異なり、自己の逃避の欲望をそのまま示すものではない。夢の中で患者は、私秘的な世界とは異質な共同的な世界が存在することをかいまみる。  患者は、私秘的な世界に閉じこもっていてはならないことを、夢によって伝えられるのである。このように夢は「精神的な覚醒(9)」としての意味をもつものと考えられていた。  フーコーはこのビンスワンガーの現存在分析を手掛かりに、精神疾患の問題を主体の自由の問題として考え直そうとした。フーコーは夢において、私秘的な世界の根源的な秘密があかされると考える。夢によって主体は、共通の世界の客観性から一度切断されるが、それによって「人間的な主体はその根源的な自由」を回復するのである。フーコーによると、夢みる経験は、自由の運動を復原するものである。この夢において、主体は世界において倫理的な主体として責任をとり得るのか、それとも自己を忘れて世界の因果関係のうちに落ち込むにまかせるかが示されるのである。  こうした夢の中でも、世界に対する主体の姿勢がもっとも顕著に示される夢がある——死の夢である。死の不安にとり憑かれた夢において、人間の自由な実存と世界の必然性の矛盾が突如として輝き出るとフーコーは考える。人はおのれの夢のもっとも深い場所で、みずからの死に出会うのである。フーコーは、ハイデガーの本来性と非本来性という概念に基づいて、人間の本来的な死と非本来的な死を区別する。「非本来的な死」とは、生が突如として血腥い形で終了することであり、悲劇的な死である。この死においては、人間は自己の自由を運命として否定せざるを得ない。一方で「本来的な死」とは、人間の実存が完成されるような死であり、世界との和解である。これは、自由と世界が対立したり、実存と必然性が対立するのではなく、両者が根源的に統一される実存の完成としての死である。  フーコーのこの序文は、ビンスワンガーの論文をフランス語に翻訳した際の紹介文として書かれたものであり、この本来的な死の夢からどのようにして患者を治癒に導くかを問題とするものではない。しかしフーコーがここで強調しているのは、この非本来的な死の夢と、私秘的な世界に閉じこもる患者の生のありかたが一致しているということである。  フーコーは、非本来的なありかたをしている患者は自己の妄想に吸収されたままであり、「その根源的な自由が完全に疎外されてしまうような客観的な決定論」に身をゆだねたままであると考えるのである。  フーコーのこの結論は、ビンスワンガーの治療の方法とは微妙に食い違う。ビンスワンガーは、患者を私秘的な世界から連れだすことを医師の目的と考えた。しかしフーコーは、患者はみずからの根源的な自由と想像力を放棄することによって、疾病という「客観的なプロセス」に屈するようになると考えている。フーコーにとっては精神療法の目的は、患者の目を共通の世界に向けて開かせることであるよりも、「イメージのうちに閉じ込められている想像的なものを解放すること」であり、「表現」へと向かわせることである。  フーコーは夢において、人間の実存を主体的な側面から理解するための拠点を確保した。本来的な死の夢においては、人間の根源的な自由が表現される可能性があると考えたのである。しかし人間が非本来的な夢にとりつかれ、精神の疾患に罹る理由と条件は、このビンスワンガーの現象学的な現存在分析では明らかにならない。この精神疾患の客体としての側面を分析したのが、『精神疾患と人格』の第二部である。 †社会における疎外——『精神疾患と人格』[#「†社会における疎外——『精神疾患と人格』」はゴシック体] 『精神疾患と人格』の第二部では、狂者が狂気という閉ざされた世界、私秘的で病的な世界に落ち込むことの現実の条件が探求される。ビンスワンガーは、患者が私秘的な世界に落ち込んだのは、精神疾患があるからだと考え、この世界からの解放の方法を模索した。しかしこの分析では、精神疾患そのものが生まれた条件を分析する道は、方法論的に閉ざされている。たしかに現象学的な分析は、患者の世界を理解し、患者にこの閉ざされた世界からの解放の道を示唆するという臨床面での効用はあるが、精神の病の条件そのものを問うことはできない。そして狂気を分析するには、狂気の社会的および歴史的な条件を問わねばならないはずである。  ここでフーコーの問いは現象学的な分析から離れて、社会的および歴史的な分析へと向かう。これは精神医学の基礎と社会における役割を問題とする問いであり、精神医学にとっては危険な問いである。精神医学は、患者を治療することを目的とするが、どのような形で患者を〈治癒〉するかは、治療とは別の問題である。  精神医学の目的が、患者が社会に復帰できるようにすることだと考えると、患者が復帰する社会はどの程度に〈健全〉であり、どの程度に特殊的であるか。患者はどのように「正常」になれば、社会に復帰できると判断されるか。ここで精神医学の治療は、すぐに政治的な意味をおびるようになる。精神医学はある意味ではその社会における政治的な実践なのである。正常と異常の判定自体が、「異常」を排除し、社会的な秩序を確保するという実践と結びつくからである。  ビンスワンガーの実存分析の問題点は、人間の自由が発揮される具体的な社会そのものを考慮することができないことにあった。フーコーは『精神疾患と人格』において、人が実際に精神疾患に罹るための二つの条件を提示する。心理的な葛藤の原因となる社会的および歴史的な条件と、この葛藤が病理的な反応に転換される心理的な条件である。  歴史的な条件を検討した心理学者としてあげられているのが、マルクス主義心理学者のパブロフである。フーコーは、パブロフの刺激—反応モデルに基づいて、精神の疾患と身体病理学の間の対立を克服できるような「真の意味で唯物論的な」心理学を構想した。この真の心理学の目的は、人間の疎外を克服し、自由を実現することにあった。 †「真の心理学」のプロジェクトの破綻[#「†「真の心理学」のプロジェクトの破綻」はゴシック体]  この時期のフーコーが構想した「真の心理学」とは、人間学的な理論に基づいて、人間の解放をめざすものだったと考えることができる。フーコーが『実存と夢』の序文と『精神疾患と人格』で提示した心理学のプロジェクトは、人間の実存と自由を重視し、実存論的な心理学を構築するとともに、社会で生きる人間の疎外の克服の方法を模索するというものであった。現象学的な分析は、患者の主観的な疎外からの自由を回復し、マルクス主義的な心理学は、患者の客観的な疎外(社会における物象化)からの自由を回復する——フーコーはこの二つの自由の回復を一挙に達成することを目指したのである。  しかしフーコーは、この人間学的なプロジェクトに疑問を抱くようになる。フーコーは後にこの時期については「若気のいたり」と語っていたようであり、『精神疾患と人格』という著作を自分の業績から抹消しようと考えたほどである。それではフーコーはなぜ「真の心理学」のプロジェクトを放棄するようになったのだろうか。  これは推測にすぎないのだが、その後のフーコーの人間学批判を先取りして言うと、この転回の秘密の鍵を握っているのは、精神医学が密かに前提としている〈正常性〉という概念と、人間学の基本的な前提である「人間性」という概念だったはずである。  この人間性という概念は、人間にはある自然で本質的な特性があり、それに従うことが〈正常〉であり、この「自然な」特性を実現することが、人間の〈目的〉であるという考え方を含んでいる。実はフーコーが「真の心理学」で援用していた二つの理論、すなわち実存分析の手法による心理学とマルクス主義的な心理学には、この人間の自然な〈本質〉という概念を共通の前提としているという問題があった。  これは、人間はある本質を最初に所有していて、それがなんらかの理由から地位の劣ったものに転落し、それが再び回復されると想定する形而上学的な考え方に由来するものである。プラトンでは、哲学の目的はこの世に生まれる前にみた〈イデア〉のもとに復帰することであった。アリストテレスは、人間の本質はデュナミス(潜勢態)として与えられていて、それがエネルゲイア(現勢態)として実現されることが〈目的〉であると考えていた。  ハイデガーの存在論は、このアリストテレス的な目的論からは解放されているが、ビンスワンガーの実存分析やサルトルの実存哲学には、決意や覚悟や覚醒によって人間的な本質に復帰するという思考が潜んでいる。たとえば実存分析においては、患者が孤独な単独性の〈劇場〉(ビンスワンガー)から覚醒して、共同性の場に戻るのが〈治癒〉だと考えられている。しかしこの治癒によって患者が真の普遍性に到達するという保証はない。後にフーコーが『狂気の歴史』で指摘するように、この共同性の場とは西洋のブルジョワ的な道徳性の規範に従った〈正常性〉にすぎないかもしれないし、あるいは〈民族〉という共同的な幻想の場であるかもしれないのである。  さらにフーコーがもう一つの軸としていた人間の客観的な側面の分析であるマルクス主義心理学にも、同じ人間学の問題があった。マルクス主義では、労働者が労働において疎外され、ブルジョワが労働者を支配することにおいて疎外されている状態が、精神疾患をもたらすと考える。この疎外を克服しなければ精神疾患を治療することはできないのである。そしてこの支配と隷属の関係を克服することができるのはプロレタリア革命だけである。しかしマルクス主義が「疎外されない人間」の像において考えているのは、西洋の形而上学が暗黙の前提としていた〈人間の本質〉の像ではないだろうか(フーコーは後に、マルクス主義の疎外されない人間像とは、ブルジョワ的な人間像であると批判するようになる)。  フーコーが真の心理学のために期待していた二つの方法に共通しているこの人間学的な前提が、人間を解放するのではなく、実際には人間の抑圧を強化する可能性があるとしたら、フーコーの心理学のプロジェクトは方法論的に崩壊することになる。  フーコーは、二年間の精神病院づとめにたえがたさを感じて、フランスを離れてスウェーデンを訪れる。そしてこの地のウプサラ大学で『狂気の歴史』の著作にとりかかるが、スウェーデンでの経験がまさに、このことを教えるものだった。フーコーはあるインタビューで、〈自由の国〉スウェーデンにおいて経験した抑圧について、次のように語っている(10)——わたしがフランスを離れた頃には、個人的な生活に関する自由がフランスではひどく制約されていました。その当時、スウェーデンははるかに自由な国と考えられていました。しかしわたしはスウェーデンで、ある種の自由は、直接に制約を加える社会と同一ではないとしても、それに劣らぬ拘束的な効果を及ぼすものであることを経験しました。これはわたしにとっては非常に重要な経験でした。  当時のフランスは、同性愛者にとっては非常に生きがたい土地であったというが、〈自由の国〉であるはずのスウェーデンにおいては、さらに透明な抑圧が存在していた。このことは、人間性の開放という真の心理学のプロジェクトの課題が、逆に抑圧を強化するという逆説的な結果を生む可能性があることを示すものである。この経験はフーコーにとっては、このプロジェクトの意味と、その前提となる人間学を疑問とするような効果を及ぼしたはずである。  フーコーは後にカントの『人間学』を翻訳し、その詳しい注釈を書いているが、カントは『人倫の形而上学』において、同性愛の〈反自然性〉について次のように語っていた。 [#ここから2字下げ] [婚姻という]性的共同態とは、一対の人間が相手の人間の生殖器および性的能力を相互に使用することであり、この使用には自然的な使用と不自然な使用がある。不自然な使用には、同性の人格に対して行われるものと、人類以外の動物に対して行われるものがある。これらは…口に出すのも憚られるような反自然的な悖徳であり、われわれの人格の内なる人間性を侵害するものであり、なんらの制限や例外もなく、全面的な断罪に値する。 [#ここで字下げ終わり]  カントの偉大さとは別に、カント哲学には人間の欲望の一つの形態を「不自然なもの」であり、「人間性の侵害」であるとして断罪する思想があったのはたしかである。この断言の背景にあるのは、人間にとって自然なこととはなにか、人間にとってなにが「正常」であるかが、あらかじめ決定されていて、それが人間の〈本質〉であるという考え方である。  そしてこの形而上学を前提とするかぎり、ホモセクシュアルな性癖をもつ人間は、自己の欲望と実存を否定することを強いられる。それは外部からの抑圧や制限として経験されるよりも、自己を異常な存在、不自然な存在とみずから認めることを強制する力として働く。そしてこの自己認識は、透明な檻のように人間を内部から支配する。外的な抑圧からの解放というみかけのもとで、実は内的な支配と隷属の強化が進められる場合があるというのが、フーコーの『狂気の歴史』の重要なテーマの一つとなる。  これ以後のフーコーの思索は、この人間学に典型的に示される西洋の形而上学の罠から逃走しようとする試みで彩られている。カントが試みたのは、人間の理性の限界を明らかにすることだったが、フーコーにとっては理性の定めた限界を〈侵犯〉することが重要な課題となる。人間が「正常である」という規範的な考え方を受け入れるように強制するものを暴きだし、人間の〈本質〉という思考そのものを侵犯しようと試みること、これがこれからのフーコーの思考の倫理《エチカ》となる。  そしてこれは〈フーコーの初期〉の終焉を告げるものであった。人間学や実存主義的な心理学によって人間の自由を回復しようとする試みと、マルクス主義によって人間の疎外からの解放を実現しようするフーコーの「真の心理学」のプロジェクトが、内側から一挙に破壊されることになったのである。 [#改ページ]   【第2章】[#「【第2章】」はゴシック体]   狂気の逆説[#「狂気の逆説」はゴシック体]   …………………………………………   『狂気の歴史』『臨床医学の誕生』 [#改ページ] †『狂気の歴史』への道[#「†『狂気の歴史』への道」はゴシック体]  フーコーの初期の人間学のプロジェクトの崩壊を告げるのは、スウェーデンで著した『狂気の歴史』(一九六一年刊)である。これ以後のフーコーは、この『狂気の歴史』を自分の処女作と呼ぶようになる。この浩瀚な書物は、その後のフーコーの思考の方法論の契機となるさまざまな要素を含んだ豊穣な書物であり、フーコーが自分の処女作として位置づけるにふさわしい書物である。  フーコーは後年のインタビューで、これは理性と狂気の関係の歴史についての書物であり、サンタンヌの精神病院での経験がもとになって誕生したと語っている。精神病院で研修を始めたフーコーが直面したのは、患者の心理学的な分析ではなく、医者と患者の関係がもつ意味の問題だった。精神病院の壁、規則、習慣、制約、強制、暴力などを介して、これらの人々の間でなにが起こっているのか。「これほど劇的で、これほど緊張が漲っている関係。調整され、科学的な言語表現によって正当化されているとしても、これは非常に奇妙な関係であり、ほとんど闘いであり、対立であり、攻撃性の関係であることに変わりはなかった(11)」。  フーコーが「真の心理学」のプロジェクトを構想した際に直面したのは、心理学の科学性と精神病院という制度の歴史性の問題だった。この書物はまさに、この二つのテーマをめぐって展開される。そして『狂気の歴史』で確認されるのは、この二つのテーマが別のものではないこと、心理学、とくに精神病理学の疑似−科学性の根拠は、まさに精神病院という施設の誕生の歴史性のうちに孕まれていたということである。 †狂気の概念[#「†狂気の概念」はゴシック体]  この書物の題名は『狂気の歴史』であるが、実はこの書は狂気そのものの歴史を探求するものではなく、狂気が近代以降の西洋社会において、いかにして〈精神の病〉と考えられるようになったかを問いながら、精神病理学の成立条件そのものを解明する試みである。現在では狂気は精神病と同義語のように考えられているが、精神病という概念は新しいものであり、それまでは狂気は病のカテゴリーに分類されるものではなかった。  たとえばプラトンにおいては、狂気とは〈神懸かり〉のような状態であり、神が人間の意識を訪れた徴《しるし》と考えられていた。人間には、理性で認識できないものを認識するための〈眼〉が植えつけられていて、理性を失った狂人においては、その〈眼〉の働きが純粋になるのである(『ティマイオス』)。狂気のこの特権的な位置はルネサンス時代まで維持される。ルネサンス時代においては、狂気は人間の中にあるすべての悪を支配する宇宙的なヴィジョンをもつ形象であった。シェイクスピアの『リア王』、セルバンテスの『ドン・キホーテ』に描かれた狂気は、人間の抱く幻想の宇宙性と悲劇性を象徴するものだった。  しかし合理的な意識が強まるとともに、狂気が批判的に分析されるようになる。道徳性と人間性という基準に照らして、狂気と人間が考察されるようになるのである。やがてこの批判的な意識は、狂気の悲劇的で宇宙的な経験を覆い隠す。狂気は、真理を認識する〈眼〉でも、悪の象徴でもなく、精神の〈病〉となるのである。  フーコーはこの狂気という経験が精神病という〈病〉に移行する時期を、古典主義時代の初期と考えている。古典主義時代とは、一七世紀半ばから一九世紀初頭までの近代社会の形成期であり、フランスの歴史ではほぼ絶対王政の時代、ルイ一四世の時代からフランス革命までの時代が考えられている——いわゆるアンシャン・レジームの最盛期である。フーコーはこの時代において近代の政治的、社会的、経済的、思想的な枠組みが準備されたと考えているが、この時期に〈理性〉の名のもとに、狂気が非理性として排除され、狂人が監禁された。それを象徴するのが、この『狂気の歴史』の冒頭で描かれている癩施療院のエピソードである。  この病は古代から業病として、おぞましさの極にあると同時に、聖なる病と考えられていた。この二重性において、狂気とこの病はある種の特権的な意味をおびてきたのである。中世までは、この病に罹った病者を閉じ込める施設が、ヨーロッパ中にあふれていた。一三世紀半ばのルイ八世の頃の調査では、フランスには二千カ所以上の癩施療院が存在していたという。  しかしこの〈業病〉は一七世紀には急減する。空虚になったこの膨大な空間を埋めるために、最初は性病患者が収容されるが、やがて性病患者は通常の施療院に移され、癩施療院を占有するのは〈非理性〉の人々となる。大いなる閉じ込めの時代の始まりである。 †監禁の時代[#「†監禁の時代」はゴシック体]  監禁の時代の端緒を告げるのは、一六五六年にフランス国王が発表した「一般施療院」の設立を命じる布告である。パリに最初に設立された施療院だけでも、住民の一パーセントに相当する六千人の貧者が監禁された。住民が乞食に施しをすることも禁止され、国王の権力のもとに、住む家をもたない貧者が閉じ込められることになったのである。  これらの貧者が施療院に監禁されたのは、狂人だからというよりも〈理性〉に反する者だからである。そして施療院は現在の病院ではなく、「当時フランスにおいて組織されつつあった君主制的でブルジョワ的な秩序の権力機構の一つ」である。フランス全土で設立されたこの種の施設は、以前の癩施療院の内部に設置されることが多かった。この病の消滅とともに、患者を閉じ込めていた空間が「監禁された人々」の占める空間となったのである。  この種の施設は数年間でヨーロッパ中に広まった。フーコーは雑多な人々をすべて同じ施設に監禁しようとするこの試みが普及したのは、ヨーロッパ中においてひそかに共通の感受性が形成されていたからだと考えている。監禁施設が突然のように拡大したのは、この感受性が表面に浮上してきたからだというのである。それではこの「感受性」はどのようにして形成されたのだろうか。それまで社会の末端に平穏に住んでいた浮浪者を監禁しなければならないと、だれもが感じ始めたのはなぜだろうか。 †監獄——善の共和国[#「†監獄——善の共和国」はゴシック体]  最初に考えられるのは、経済的な要因による説明だろう。この一七世紀半ばの時期は、西欧社会が全体的な危機に直面した時期である。スペイン経済の危機に由来した賃金の低下、失業、貨幣価値の低落などのために、貧窮者対策が緊急に必要とされていた。最初はこの施設は「怠惰な生活を過ごし、妥当な賃金で働こうとしない者」を監禁することが主要な目的とされていた。しかし次第に貧民の労働力が評価されるようになる。労働力が不足するようになると、監禁によって安価な労働力を確保すると同時に、失業者による暴動を防止できることが期待されるようになる。  しかしフーコーの考えでは、こうした経済的な有効性よりも、宗教改革によって労働に対する考え方が変化してきたことの方が重要な意味をもつ。マックス・ウェーバーが示したように、宗教改革によって、労働は厭うべきものではなく、自分が救済されることを確認するための一つの手段となった。労働は神聖な行為となった。すると貧困は救済すべき悲惨な状態ではなくなり、慈善事業は罪悪とみなされるようになる。貧困を神聖なものと考える宗教的な感性から、貧困を非難すべきであると考える道徳的な感性への移行が生じたのである。  この感性によると、労働しないことは「神の力を試すこと」だった。これはすべての反抗の中でも、最悪の反抗とみなされるようになったのである。このようにして監禁施設における労働は、倫理的な意味をおびる。怠惰とは最高の反抗形態であり、監禁された者は、それが経済的に収益をあげられるかどうか、有用であるかどうかとはまったく無関係に、強制的に労働させられるようになる。施療院では病人の隔離だけが目的とされていたが、一七世紀以降の監禁施設では、監禁するだけではなく、労働させることが自己目的となった。狂気が白昼において暴れ回っていた『リア王』の時代からわずか半世紀で、狂気は監禁の砦の中に閉じ込められ、道徳律の支配する単調な夜の中に封じ込められたのである。 †非理性という罪[#「†非理性という罪」はゴシック体]  誕生したばかりのこの監禁施設に幽閉された狂気は、医学と錯綜した関係を取り結ぶようになる。この施設では医学と道徳が、狂気に対して共犯関係にあった。西洋社会に新たに形成された狂気に対する感性においては、狂気は性病と同じ種類のもの、なんらかの〈罪〉を犯したものと考えられていた。このため、狂気を〈治療〉するという医学的な行為が、その罪を〈罰する〉という道徳的な行為を含むようになったのである。  同時に、一人の人間が狂気であるかどうかを判定するのも、道徳的な要素であった。当時のフランスにおいては、ある人間を狂人であると判断し、権力に監禁を要求するのは家族であった。家族の道徳にふさわしくないと判断された人間は、たちまち狂人と分類され、監禁され、身体を責め苛まれることになるのである。  フーコーは印象的な例を取り上げている。一八世紀初めのこと、一六歳の女性が夫と同衾することを拒んで、こう申し立てた——わたしは夫を愛しません。それを命じる法律はないのです。だれもが自分の身体と心を自由にする権利をもっているのですし、心を与えずに身体だけを与えるのは一種の罪です。  家族のモラルに公然と反抗したこの若い女性は、当時の社会にあっては論理的すぎるのであり、狂人と判断されて監禁された。同じように、性病、同性愛、放蕩などの形で性の自由を表明していた人々は、家族や社会から狂人とみなされ、監禁されることになる。この監禁という制度は一つの〈道徳的な革命〉であり、フーコーは現代の精神病理学も、狂気に関する科学的で医学的な知識も、この経験から自由でないことを指摘している。ここで形成されたのは、さまざまな〈非難すべき行為〉を概括する一つのカテゴリーであり、それが非理性である。理性と非理性、すなわち理性と狂気の分割の線を引き、狂気とはなにであるかを定義したのは、この道徳的な意志だった。  これからは、放蕩者、リベルタン、浪費癖のある父親、神を冒涜する者、親不孝者、娼婦、自殺志願者、錬金術師、無宗教者などが、「気違い」「低能者」「気のふれた者」などとともに、非理性のカテゴリーに分類され、監禁されることになる。ある一つの基準だけをもとに、カテゴリーに反するものまで、〈非理性〉というカテゴリーに放り込んで排除しようとするこの方法は、後にフーコーが『言葉と物』の冒頭で取り上げる「中国の事典」をどこか思い出させるところがある。 †狂気の動物性[#「†狂気の動物性」はゴシック体]  このようにして道徳的な理由から排除された〈非理性〉の人々は、人目に触れないように監禁された。そもそもこれらの人々は、〈家族の名誉〉を守るために監禁されたのであった。しかしこれとは逆に、この非理性のカテゴリーに混同された〈本物の〉狂者は特別な扱いを受ける——見せ物にされるのである。フランスでは革命までは、ビセートルの施設に遠出して重症の狂者を見物することが、パリ市民の日曜の気晴らしだったという。狂者は、格子の向うで、理性の好奇のまなざしにさらされることになる。「狂気は、みられるべき物となった。もはや自己自身の奥底に潜む怪物ではない。奇妙なメカニズムをそなえた動物であり、ずっと前から人間性が消滅している動物性そのものである」。  市民たちが狂人を平気な顔で見物することができたのは、狂人がもはや人間ではなく、一種の動物だからであり、独房の壁に縛りつけられているのは、正気を失った人間ではなく、自然の凶暴さに悩まされている動物だからである。そして狂人が凶暴な動物であるなら、狂人は病人ではないことになる。  古典主義時代においては、狂人の治療は真剣に考えられなかった。狂人が動物のような存在であれば、病を治療することではなく、野獣を飼い馴らすように、調教することが必要とされる。動物の次元にある狂者においては、いかなる道徳性も問題とならない。非理性のカテゴリーには、道徳的な秩序から排除された有罪者と、動物的な次元に存在し、いかなる〈罪〉ともかかわりのない狂者の両方が含まれる。そしてこのカテゴリーは、道徳的な有罪者と動物的な無罪者の両方を結び合わせるのである。 †監禁から解放へ[#「†監禁から解放へ」はゴシック体]  しかし市民社会の発展にともなって、新しい感受性が誕生する。重商主義的な経済においては、生産者でも消費者でもない貧民は監禁すべきものであった。放浪者である無為の貧民は、社会から排除するために監禁する以外になかったのである。しかし工業が発展して労働力が必要となると、貧民はいわば国民の仲間入りをするようになる。新しい経済学では、人口はそれ自体で富の構成要素となる。富は人間の労働と結びついているからである。  この新しい観点からこの問題を眺めてみよう。貧民を監禁して、経済性を問題にせずに道徳的な見地から労働させるのは、重要な失敗である。貧民は労働させるべきである。労働市場から排除し、しかも慈善対策で貧民を養うのは、二重のマイナスに他ならない。労働力を市場から引き上げ、資本を流通過程から引き上げるからである。道理に適った唯一の解決策は、全人口を生産の循環の中に位置づけ、労働力がもっとも不足している場所に人口を多く配置することであろう。  この自由主義的な新しい経済学からみると、市場における労働力の供給に対する二つの大きな障碍があった——同業組合と監禁施設である。だから監禁施設は無駄なものであり、これを廃止する必要がある。フランス革命以前に、狂気が〈自由〉になる条件は満たされていた。狂気が解放されたのは、「人類愛がなんらかの形で介入したためでも、狂気の〈真理〉が科学的で実証的に認知されたためでもない。経験のもっともひそかな構造の中で営まれてきた緩慢な作業のおかげである」。 †〈解放〉の神話[#「†〈解放〉の神話」はゴシック体]  フランスで狂人を監禁施設から解放した伝説的な人物として名高いのがピネルである。ある百科辞典ではピネルを「近代精神医学の創始者」と紹介している。ピネルは「ビセートルでは精神病者を鎖から解放し、患者の衛生、食事、院内管理など、精神病者の待遇改善に尽力した」のである(12)。そしてピネルの伝記には、狂人の解放についての有名なエピソードが描かれている。実はこれは一つの〈神話〉に他ならないことがほぼ明らかにされているが、このエピソードは神話的な力をそなえていて、精神医学が人間的で実証的な科学として誕生した瞬間を物語るものとして、精神医学の歴史において長く語り継がれてきた。  この神話によると、革命直後のこと、ビセートルの監禁施設において、ピネルは狂人たちを縛りつけていた鎖を解き放ち、患者たちを理性的な人間として取り扱うことを決定した。しかしそこに革命政府の恐怖政治のイメージを代表する「不具者のクートン」が施設を訪れる。反革命の容疑者が潜んでいるのではないかと疑ったからである。身体が麻痺したクートンは、人々にだき抱えられ、施設の中でも狂躁的な患者が監禁されている区画に案内される。  クートンは施設に監禁されている者たちに質問しようとするが、悪口雑言しか返ってこない。クートンはピネルに対して、「おい同志、こんな獣たちの鎖を解こうとするなんて、君も狂っているのか」と尋ねる。ピネルは静かに答える——「同志よ、私の確信しているところでは、これらの精神錯乱者たちは、空気と自由を奪われているからこそ、これほど治癒しにくいのです」。クートンは施設を去り「大博愛家ピネルは仕事に取りかかった」。  クートンが立ち去った後に最初にピネルが解放したのは、「給仕人を殴り殺した」ことのある「凶暴な」イギリス人中尉であった。ピネルはこの中尉に、理性的にふるまうことを約束するなら、鎖を解き、中庭を歩く自由を与えると申し出る。この中尉はこの条件を受け入れ、中庭を「走ったり、階段を上り降りしながら、絶えず〈何と美しい!〉と叫んでいた」。彼はその後二年間ビセートルにとどまったが、「もう発作的に暴力的になることはなかった。彼はこの施設に有益な人物となり、狂人たちに一種の権威をふるうようになった。自分なりに狂者たちを支配して、いわば番人となった」という。  この「聖者伝」の中の別の登場人物は、自分を将軍だと信じている大酒呑みの兵士である。ピネルはこの誇大妄想の患者に、自分の奉公人となるなら、鎖を解いてやると提案する。すると「奇蹟が起こり、忠実な召使の美徳が、この狂った精神の中に突如として目覚める」。 †狂気の逆説[#「†狂気の逆説」はゴシック体]  この神話では、鎖が解かれて自由になると、患者は理性的にふるまい始めるようである。それでは自由の身になった患者は、理性を取り戻したのであろうか。フーコーはこれらの患者が取り戻したのは、理性そのものではなく、「すっかり組み立てられた社会的なさまざまな類型」であると指摘している。解放された狂人は、理性的な人間としてではなく、下士官として、番人として、召使として〈正気〉に戻るのである。ここで働いているのは、精神病院における〈神話的な力〉である。  ピネルが解放した患者は、突然正気に戻ったのではなく、社会的なパターンに従って行動することができるようになっただけである。そしてピネルが望んだことも、それ以外のものではなかった。「ピネルにとって狂人の治療とは、道徳的に認められ、承認された社会的な型の中に、狂人を安定させること」である。  狂者はそれまでは鎖で身体を縛られているだけであり、心は野生のままに猛り狂っていた。しかし身体の鎖を解かれた患者は、それからはピネルのまなざしに身体を貫かれながら、心を鎖で縛られるようになる。他者の道徳を自己の道徳として確立し、社会的で道徳的な主体として自己を確立することで、〈治癒〉するのである。  この狂気の逆説は、フーコーがスウェーデンで経験した逆説の意味を照らしだすものであった。自由なはずのスウェーデンの社会で、内的な抑圧が強まったのと同じように、狂者は自己の身体の奥深く、行動と思考の源泉となる場所まで、他者のまなざしによって貫かれることで〈解放〉されるのである。  これは非常に逆説的な事態であった。狂者はある種の袋小路にはまり込んでいるのである。そもそも狂気は、主体が自己と社会から疎外されることによって発生するのであり、その治療が求められたはずだった。しかし狂気が治癒されるためには、実存を疎外するような道徳性に服しながら、実存としての自己を疎外する社会の中に、自己を疎外したままで復帰することを要求されるのである。これは狂気の治癒にまつわる逆説である。自己の疎外(=狂気)が解消されるはずの治癒が実現されるのは、自己の完全な疎外においてでしかない。 †『狂気の歴史』の結論[#「†『狂気の歴史』の結論」はゴシック体]  フーコーは自問する。それではこのような治癒をもたらすための学である精神病理学とはなにか。それは科学でありうるか。心理学は科学を自称しながら、実は狂気を統御し、「自分の視線と道徳を用いた牢獄の中で、狂気を解放したまま捕らえておくこと、自分自身の片隅に押し込んだまま、狂気を武装解除すること」に他ならないのではないか。  フーコーがここで直面しているのは、精神医学や心理学という学問の誕生の秘密である。一般的な精神医学の歴史の書物では、こう述べられている——狂気は近代までは医学的な対象、すなわち疾患とはみなされなかった。このために狂者は精神の病を患っている病人であることが認識されず、犯罪者たちとともに監禁施設に同居させられていた。しかし近代になって医学的なまなざしが澄んできて、精神医学という科学が誕生したために、狂気が疾患として認識されるようになった。ピネルは狂人を鎖から解放することで、その疾患の治癒のための一歩を進めた——というのである。  しかしフーコーが明らかにしたのは、精神医学が科学となったから狂気が疾患として認識されたのではなく、狂気が「精神の病」として位置づけられたからこそ、精神医学と心理学が可能になったということである。狂人が「解放」され、「刑罰を与える道徳の世界」の中に、魂を道徳の鎖で拘束されるようになるとともに、狂気には「心理学的な地位と構造と意味」が与えられるようになった。 [#ここから2字下げ] 一九世紀の「人間愛」が、狂気を「解放」という偽善的な形式で閉じ込めたこの「道徳的なサディズム」なしには、この心理学というものは存在しなかっただろう(13)。 [#ここで字下げ終わり]  このように狂気の歴史を描くということは、実は心理学というものが誕生するための条件を描くことだった。狂気は心理学の一つの対象ではなく、心理学の成立の条件そのものであり、この心理学という学問は、一九世紀以来の西洋世界に固有の文化的な事件であった。狂気の歴史はある意味では心理学の誕生の歴史でもあった。『狂気の歴史』のサブタイトルを〈心理学の考古学〉としてもよかったのである。 †心理学との訣別[#「†心理学との訣別」はゴシック体]  フーコーは『言葉と物』において、人間が主体であると同時に客体となる一連の学問を人間科学と総称するようになるが、『狂気の歴史』で取り上げた心理学と精神医学は、その代表的な学問であった。これらの学問の特徴は、自然の事物を対象とする物理学や化学のような学問とは異なり、学問の対象が同時にその主体であるために、厳密な科学性に到達することができないことにある。だから心理学にとっては「科学性」を確保するのは〈見果てぬ夢〉にすぎない。  そもそも狂気を作るのは、社会そのものである。フーコーは一九六二年の『精神疾患と心理学』においては、『夢と実存』の自由の分析を敷衍しながら、「病人が自己の世界を機械化するのは、彼が分裂病的宇宙を投影し、そこで自己を見失うからだというのは馬鹿げたことであろう。彼が分裂病者であるというのさえ誤りである」と指摘している。  病人が分裂病的なふるまいをするのは、社会が分裂病的だからなのである。西洋の近代の資本主義社会は、経済的および社会的な条件において、人間に分裂を強いている。人間は言語を持ち、言語において生きるが、その言語は他者の言語である。言語を語る人間は、言語において自己を見いだすことができない。人間は労働して生産物を作るが、それは他者の労働に依拠し、他者による消費を目的とする。人間は自己の生産物に、自己を見いだすことができない。このように分裂的な文化に生きている人間は、分裂病的なあり方以外の道を選ぶことができないのである。このような社会で生きる人間の精神疾患の条件は、歴史に見いださなければならない。  これはフーコーの心理学に対する訣別の宣言である。フーコーは心理学のような人間科学の科学性を追求するという空しい課題を放棄する。フーコーがこれから課題とするのは、こうした人間科学の誕生の秘密を暴きだすことによって、その内的な抑圧の機能を解除していくこと、そしてこの社会において悲劇的な分裂を経験しながら、理性の根源的な自由を語り続けた「狂人たちの言葉」を、ネルヴァル、アルトー、ニーチエ、ルーセルなどのテクストから掘り出していくことである。  この人間科学という学問の誕生の条件を解明し、その人間学的な前提を批判していく課題を遂行するのが、考古学(アルケオロジー)という方法である。次の著作『臨床医学の誕生』では、医学の誕生を考古学的に分析しながら、科学的な学問である医学においても同じような問題が存在することを明らかにする。 †まなざしの考古学——『臨床医学の誕生』[#「†まなざしの考古学——『臨床医学の誕生』」はゴシック体] 『臨床医学の誕生』の冒頭部分でフーコーは、『狂気の歴史』で登場していた一八世紀半ばの医師ポンムの文章を引用している。ポンムはヒステリーの女性を治療しながら、その女性の身体と病巣について、「神経病理学のもろもろの古い神話」の言語で語っていた。脳膜の損傷について「水浸しにした羊皮紙の断片のような切れ端が、…剥離」してくると記述していたのである。  この古めかしい文章が書かれてから百年後には、どの医師も同じ脳膜の損傷について、現代とほとんど変わらない解剖学的な表現で叙述するようになる。フーコーはこの文章の違いはどこから生まれたかと自問する。神経病理学が解剖学に進歩したからというのがもっとも簡明な答えであろうが、フーコーが考古学的な観点から問題にするのは、その進歩はどのような条件のもとで可能になったかということである。 〈一八世紀の医師には、自分のみているものがみえなかったのだ。しかし数十年のうちに、幻想的な形象は消え失せ、そこに開けた空間が、事物のありのままの輪郭を視覚にもたらした〉と説明するのでは、「進歩」を前提として現在の時点から回顧的に物語っているにすぎない。これには説明としての価値がないのである。  フーコーがこの書物で明らかにするのは、医学という学問が誕生するためには、医師のまなざしに「みえるものとみえないもの」の関係が変化しなければならなかったということである。同じものがみえていたはずなのに、古典主義時代の医者と近代の医者が疾患を記述する文章が、これほど違ってくるのはなぜか。フーコーはこの問題を解明しながら、臨床施設と近代医学の誕生の秘密を明らかにする。 †〈種の医学〉[#「†〈種の医学〉」はゴシック体]  心理学や精神病理学とは異なり、医学は近代になって登場した学問ではない。それではギリシアのヒッポクラテス以来の伝統をもつ医学が、近代の科学的な医学となるために必要な歴史的な条件はなにか。このようにある学問について、その成立を可能にした条件を歴史的に解明していくのが、フーコーの考古学の方法である。  考古学的にみると、近代以前の古典主義時代の医学は、人間の病を植物のように分類する〈種の医学〉という性質をそなえている。植物学者のリンネが、葉の形や付き方によって植物を分類していったように、この分類学的な医学では、さまざまな症状に基づいて、その一連の症状を引き起こす原因となっている疾病を特定しようとする。  この〈種の医学〉では、病をその兆候に基づいて、科、属、種へと階層的に編成する。これは病を系統樹の表(タブロー)に分類するものであり、この医学が展開されるのは、永続的な同時性の平坦な空間であり、表と図式の空間である。この表《タブロー》の空間の意味は、『言葉と物』で詳細に分析されるテーマであるが、フーコーはこの書物ですでにこの古典主義時代の空間の意味を考察する。  この空間において医師は、疾病の隠れた本性を探りだそうとする。病人という個人が問題なのではなく、病人の症状に現れた兆候を解釈して、潜んでいる真の病を判読しなければならない。皮肉なことに、この空間では疾病を治療することよりも、疾病をその本来の姿で認識することの方が重要になる。たとえばあまり早い時期に薬を使用すると、病の本性が隠されてしまって、真の治療の妨げになると考えられていた。この〈病の解釈学〉では、個人としての病人は、病の偶然的な要素にすぎない。重要なのは病であり、病人はその病の「肖像画」のようなものである。「病人はこの〈みえるもの〉を示しながら、同時にそれを隠すのである」。  この〈種の医学〉にとっては、病人を人工的な施設に収容することは、病の解読を妨げるものであった。このような施設では、さまざまな病が混じり合い、病気は変質し、本質的な特徴を失ってしまう。患者は、病気が純粋培養される場、すなわち家庭で手当てを受けるのが望ましい。「家庭こそ、もっとも自然で原始的であり、道徳的にもっとも堅固な形態において考えられた社会的空間であり、閉鎖的であると同時に完全に透明な空間であり、そこにおいて病はみずから身を任せる」のである。 †規範としての医学[#「†規範としての医学」はゴシック体]  しかしこの〈種の医学〉は、医学が国家と結びつくようになるとともに崩壊する。フランスで一八世紀末に破壊的な猛威をふるった流行病と、貧民の生活保護をめぐる論争をきっかけとして、医学はもはや家庭という閉鎖的な空間にまかせておけるものではなく、国家が組織化すべきものとなった。  フーコーはフランス革命の後で、国家による医学の組織化を象徴的に示す二つの神話が登場したことを指摘している。住民の肉体の健康を配慮する〈医師軍〉の神話と、住民の福祉のために戦う〈解放者としての医師〉の神話である。  医師軍の神話によると、僧侶が魂を癒すとすれば、医師は肉体を癒すのであり、医師は「肉体の僧侶」である。住民は僧侶と医師によって、国家に精神と身体を支配される。医学は国家の神聖な任務であり、医師はその道具にすぎない。そして第二の神話によると、医師のつとめは政治的なものであり、病との戦いは悪しき制度との戦いである。人間は解放されなければ、完全に治癒することはない。貧しき人々と日々接している医師は、富者の横暴と貧者の惨めさを明らかにしなければならない。人々の悲惨の原因は、「暴虐と奴隷状態」にあるのである。  フーコーは後に、こうした「健康で聖なる国家」の夢想を〈福祉社会〉の問題として再び捉え直すようになるが、国家が医学を組織するようになるとともに、医学が国家において重要な位置を占めるようになった。医学はたんなる治癒の技術と治癒のための知識ではなく、「健康な人間」についての規範を含むものとなったのである。 「健康な人間」とは、病気でない人間であるだけでなく、「模範的な人間」の定義を含むものであり、医師が人間の在り方の規範を定めることになる。医学は、健康な生活を送るための指針を提供するだけでなく、個人と社会の関係を、精神と肉体の両面において指導する役割を与えられたのである。社会や民族の健康は、正常性と異常性という医学的な概念の両極性において判断されるようになる。  このように医学の根本に、科学的な基準ではなく、「正常性」という道徳的な意味あいを含む基準がおかれることになった。国家と医学は、この正常性の確保と異常性の排除という点で手を結ぶ。  これによって、医学が人間の科学において規範的な位置を占めるようになった。フーコーは、人間に関する諸科学は、医学を規範的な学としたために、この正常性と異常性という観念につきまとわれていることを指摘している。  これはフーコーがすでに『精神疾患と心理学』で確認していることだが、人間に関する多くの学問は、欠如や異常性を学問の根源としている。人格の心理学は、二重人格の分析にはじまり、知能の心理学は知能の欠陥の分析にはじまる。そして精神病理学は、日常の生活では理性的にふるまいながら、突然殺人を犯すために「理性をそなえた狂気」と呼ばれたモノマニーの分析にはじまるのである。 †死のまなざし[#「†死のまなざし」はゴシック体]  フーコーはこの書において、いかに臨床医学という知のまなざしが、歴史的および制度的な枠組みにおいて発展してきたかを詳細に分析した。この分析によって明らかになったのは、臨床医学とは人間の生ではなく、欠如そのものである死を契機として誕生したことである。 『言葉と物』でも分析されるように、生物学が誕生するにあたっては、動物の解剖が決定的な役割を果たした。表面だけをながめて分類していた視線が、肉の厚みの中に入り込む必要性が感じられるようになったために、科学としての生物学の誕生が促されたのである。  同じように、医学においては、死体を解剖し、死という観点から生と病をみる必要性が感じられるようになったことが、科学としての近代医学の誕生を可能にした。一八世紀までは、病は生命に突然発生する事故のようなものと考えられていた。生者は事故にでも遭うように病に罹り、死ぬのである。しかし解剖学の視線によって、死が生体の固有のメカニズムの中に固定されると、死は人間の生というプロセスの必然的な帰結となる。  解剖学が医学にもたらしたのは、死の観点からみることで、生体内の依存関係や病理的な系列を分析できるようになるという認識であった。これからは医学のまなざしは、死のまなざしとなる。生ける眼のまなざしではなく、死をみてしまった眼のまなざしにおいて、生と病が分析されるようになる。  死とは、生命において可能になった病である。生の最初の瞬間から死が働き始め、次第にその切迫性を増し始める。起こりうる事故としての病において死が忍び込むのではない。死は生命に最初から結びついているのであり、この死と生命の結びつきが生命そのものを構成し、やがてこれを破壊するのである。 †個人を対象とする科学の誕生[#「†個人を対象とする科学の誕生」はゴシック体]  このまなざしがもたらしたのは、個人を対象とする科学の可能性である。アリストテレス以来、個人は科学の対象ではなかった。科学は、変化する個体ではなく、種のように変化しない普遍的なものを対象とする必要があると考えられてきたのである。臨床医学以前の医学にとっても、個人は症例の本質が示される場にすぎなかった。  しかしまなざしの医学にとっては、個人の身体は、症例が投影される画面や病の「肖像画」のようなものではなく、疾患がその個性を発揮する特権的な場である。解剖学・臨床医学的な方法は、「病気の構造のなかに個人的な変化がいつでもありうるという可能性を、初めて組み込んだ」のである。  解剖学的なまなざしは、生体の内部に入り込み、それまで不可視であった生を、死の陰画《ネガ》としてあらわにする。それまで生体の深みにおいて不可視であったものが、まなざしの光のもとにもたらされ、個体の多様性において、詳しく記述される。ここに、個人の生きた身体の中で、病が具体的なものとなった。西洋の文化において初めて個人が科学的な記述の対象となるには、この死という契機を通過することが必要だったのである。  西洋文化は、人間の死んだ身体の解剖という道を通じて、初めて自己を科学の対象として眼前に据え、科学的な言語において自己を記述することができたのである。逆説的な事態であるが、心理学の可能性は、理性の考察からではなく、非理性のカテゴリーの確立から生まれた。そして医学は、生命ではなく死を医学的な思考の中に統合することによって生まれたのである。 †臨床医学の位置[#「†臨床医学の位置」はゴシック体]  フーコーはこの書物の初版のサブタイトルを「まなざしの考古学」としていた。このまなざしの考古学が明らかにしたことは、臨床医学が誕生するにあたっては、医師のまなざしが人間の生命ではなく、死をみつめる必要があったということである。この死をみつめるまなざしは、とくに新しいものではない。中世には「|死を思え《メメント・モリ》」という技法があった。これは若い乙女も死ねば骸骨になること、若さもまだ到来しない死に他ならないことを透視する技術であった。中世のこのまなざしは、人間の個性を死に還元するまなざしである。  しかし臨床医学のまなざしにおいては、個性は死に還元されるのではない。人間は死によって自己の有限性を明瞭に自覚し、そこから自己の個性と生を組み立てるようになったのである。近代医学とは、人間が主体であり、同時に客体でもあるという特異な構造をそなえた学問である人間科学の根拠であり、規範であるような学問である。  そしてこの死のまなざしに照らしだされ、有限性の刻印をおびた人間は、フーコーが『言葉と物』で展開する「差し迫った死から逃れるために、その生涯をすごし、すり減らし、失っていく人間」、すなわちホモ・エコノミクスと同じ生き物なのである。 [#改ページ]   【第3章】[#「【第3章】」はゴシック体]   知の考古学の方法[#「知の考古学の方法」はゴシック体]   …………………………………   『言葉と物』『知の考古学』 [#改ページ]   †考古学と歴史的な条件[#「†考古学と歴史的な条件」はゴシック体] 『臨床医学の誕生』において明らかにされたのは、医学が科学的な学問として成立するためには、その科学を可能にするための前提条件が成立する必要があるということだった。その前提条件とは、人間が物をみるまなざしが変化し、みたものを表現する言葉が変化することである。ここで明らかにされたのは、顕微鏡のようにわれわれが普通に使っている道具や、以前から継続的に存在していると思いこんでいる医学のような学問が、一つの歴史的な条件のもとでしか成立しなかったということである。  フーコーが次にとりかかったのは、心理学や医学などの個々の学問ではなく、西洋の近代科学そのものの成立のための歴史的な条件を明らかにする作業である。フーコーは、降る特定の時期に、さまざまな分野で次々と「近代的な」科学が登場してくることに注目した。この同時性の秘密はなにか——この問いに答えようとしたのが、『言葉と物』である。  その意味では、『言葉と物』は歴史的な分析を目的とする書物である。しかし一九六〇年代には、フーコーとこの書物は、反歴史的な構造主義の書物として評価されていた。そして当時のフーコーは、構造主義の旗手としてもてはやされたものだった。やがてフーコーは、自分が構造主義者であることを否定するようになるが、この書物が刊行された当時は、構造主義者の一人であることを自認していたのであり、この書物において構造論的な方法が顕著にみられるのはたしかである。それではフーコーはこの書物でなぜ構造主義的な方法を採用したのだろうか。 †第二次大戦後のフランスと歴史主義[#「†第二次大戦後のフランスと歴史主義」はゴシック体]  これは、当時のフランスの思想的な課題の問題として理解することができるはずである。第二次世界大戦で屈辱的な敗北を喫したフランスでは、戦争という歴史的な大事件を理解しようとする情熱が誕生していた。サルトルが語っているように、戦争とレジスタンスを経験したフランス、「時代の冷酷さによって、極端なまで、不条理なまで、認知不能な夜にまで、人間の条件をまのあたりに見た」フランスにおいては、歴史性への情熱が人々を捉えたのである。サルトルは「われわれの[#「われわれの」に傍点]問題」とは、「いかにして人間は、歴史のなかで、歴史を通じて、また歴史にたいして、自己を人間となしうるか」であると熱っぽく語っていた(14)。  これを象徴するのが、サルトルの同僚として実存主義を主唱していたメルロ=ポンティの『ヒューマニズムとテロル』である。この書物は、戦後のフランスの思想界に導入されたヘーゲル主義と、その歴史主義がもっていた魅力をありありと示している。『ヒューマニズムとテロル』は、ソ連のスターリン統治下において有力な革命家を粛正するための裁判であったブハーリン裁判をテーマとする。この裁判では被告たちは、自分たちの意図は革命を推進することにあったと抗弁した。しかしそれがスターリンの主張するように、実際には反革命的な意味をもってしまったと納得し、被告たちは自ら進んで死刑になることを甘受する。  スターリンの論理によると、人間の行動の価値は、歴史の進路によって決定されることになる。いかに善き意図に従って行われた行為でも、それが歴史の方向に反するものであったならば、それは断罪すべきものとなる。人間の行動の価値は、歴史の目的をいかに見抜き、その方向性に沿った行動を取るかによって決定される。  メルロ=ポンティはこの書物でスターリンと共鳴するかのように、人間の行動の価値を決定するのは歴史の方向であると主張した。しかしこの主張には大きな難点がある。歴史がどちらに進むかは、最後の瞬間にならなければわからない。歴史が終焉しなければ、行動の価値は決定できなくなる。  もちろんマルクス主義が主張するように、プロレタリア革命によって人間の前史が終り、真の歴史が始まるのであれば、プロレタリア革命を推進するのが歴史の方向である。しかしそれは一つの理論にすぎず、原理的には実際に歴史が終焉してみなければ、それが正しかったかどうかは判断できないはずである。  戦後のフランスの思想界を支配したのは、この歴史の方向という概念を提示したヘーゲル主義と、歴史の方向性を洞察して自己の行動を決定する実存主義とヒューマニズムである。しかし歴史に目的があるという考え方は抑圧的な機能を果たすことがある。「人間の目的」や「正義」に適った行為をしていると確信している人物は、他者に対して苛酷な抑圧を行使することをためらわないからである。スターリニズムはこのマルクス主義の目的論に依拠して、あらゆるテロルと抑圧を実行した。そして歴史の目的論に同調していたこの時点のメルロ=ポンティとサルトルの実存主義も、ある意味ではそれに加担していたのである。 †構造と歴史[#「†構造と歴史」はゴシック体]  フーコーが直面していたのはこの歴史主義と歴史の目的論だった。一九六〇年代のフランスの思想界の課題は、この歴史主義をどのようにして克服するかだった。その最初のきっかけを作ったのが、文化人類学者のレヴィ =ストロースが学問の方法として示した構造主義である。レヴィ=ストロースは『親族の基本構造』において、さまざまな未開社会の婚姻規則を分析しながら、当事者には認識されていない一定の規則が社会には存在し、それを構造的に分析し、提示できることを明らかにした。  レヴィ=ストロースはこうした規則の中でも、婚姻の規則は、社会が自己のうちで閉鎖することなく、他の社会と交通関係を開くために必要なルールとして機能している重要な規則であると考えた。近親相姦の禁止という婚姻の規則に基づいて、未開社会は他の社会と女性を交換するのである。レヴィ=ストロースのこの理論は、さまざまな未開社会における婚姻の規則、親族関係を規制する規則、財産贈与の規則、儀礼の規則などを巧みに説明することができた。  レヴィ=ストロースはこの記号学的な構造主義の理論をその後『構造人類学』や『神話学』で体系化するが、重要なのはこの理論が、社会の当事者たちが意識していない社会の仕組みを説明してしまうことにある。すなわち人間が意識していない要素が重要でありうることが、理論的に提起されたのである。  これはサルトルの実存主義にとっては大きな打撃だった。サルトルの実存主義は、人間の決断の重要性を迫るものであり、歴史主義に基づいて、人間が「疎外状況」からいかに脱出するかを課題とする。しかしレヴィ=ストロースの構造主義が明らかにしたのは、人間の決断の空しさであり、社会の無意識的な構造の優位であった。  サルトルとメルロ=ポンティにおいては、人間の行為の意味と価値は、歴史の方向性が決定するものであった。しかしレヴィ=ストロースは、意味とは体系における要素の差異で発生することを示したソシュールの言語学に依拠しながら、意味を生み出すのは社会の構造であることを指摘した。そして歴史とは、共時的な社会構造が内的な理由から変動することにすぎないと考えたのである。  このレヴィ=ストロースの構造主義は、人間の意識的な行動の意味を解体するものであり、至高の主体の理論を崩壊させる意味をもっていた。レヴィ=ストロースは『野生の思考』の「歴史と弁証法」の章で、サルトルの『弁証法的理性批判』を激しく批判する。言語学は、「人間が知らぬ人間的な理性」であり、「人間科学の究極の目的は、人間を構成することではなく、人間を解体することである」。  当時のフランスにおいてこの構造という概念は、ヘーゲル的な歴史の目的論を克服するための重要な手段だった。フーコーは、学生時代のフランスの思想界はヘーゲル主義と現象学で支配されていたが、どちらも〈主体〉の学問であり、これから抜け出すことが当時の課題だったと繰り返し回想している。フーコーは、主体はヘーゲル主義によって〈行動の意味〉を与えられ、現象学によって〈世界の意味〉を与えられると表現しているが、この主体の理論を克服する上では、構造論的な方法は魅力的な方法だった。フーコーが『言葉と物』において試みたのは、この方法を駆使しながら、心理学を含む西洋の近代科学を分析することだった。 †『言葉と物』の目指すもの[#「†『言葉と物』の目指すもの」はゴシック体] 『言葉と物』を初めて読むと、錯綜した思考の迷宮で途方にくれてしまうことが多い。しかし何度か繰り返して読めば、フーコーの目指していることがみえてくる。フーコーはそれまで心理学と医学でやってきた分析を、人間の基本的な学問について展開しているのである。それが華麗な文飾や「知の四辺形」などの複雑な展開のために、わかりにくくなっていただけなのである。  フーコーの目指すところを捉えておけば、この書物は途端に理解しやすくなる。そして生物学や経済学など、ごく普通の科学として考えられる学問が、いかに豊富で複雑な歴史的および思想的な背景において形成されているかが理解できるようになる。フーコーの巧みな手つきで、それまで疑問にも思っていなかった学問の歴史性の奥深さが、不可視の襞が次々と開かれるように、目の前に展開されてくるのである。そして読者は、西洋の近代科学の奥深さをそのような形で提示する方法と著者が存在することに驚かされるのである。  重要なのは、フーコーがここでなにをやろうとしているかを理解することである。まず、フーコーがこの書物で展開したことを簡単にテーゼ風にまとめてみよう。そしてこのテーゼを導きの糸として、フーコーの偉大な〈迷宮〉を探索してみよう。  ——物の認識は、知の枠組み(エピステーメー)によって規定される。  ——エピステーメーは時代ごとに一つだけ存在し、時代が転換すると、エピステーメーも転換する。  ——人間についての学の中で、特権的な地位を占める学がある。これらの学は、生命、労働、言語という新しい概念の登場によって成立した学である。  ——人間は近代になって誕生した概念であり、終焉の時期が近い。  ——近代において人間が主体であると同時に客体である一群の奇妙な学問が登場した。 †認識の知の枠組み[#「†認識の知の枠組み」はゴシック体]  フーコーは、『言葉と物』と名づけられることになる書物に、最初は『物の秩序』というタイトルを選んでいた。近代にいたるまで、哲学者は物の秩序と思考の秩序は一致すると素朴に信じこんできた。スピノザは『エチカ』において、物の秩序は観念の秩序と一致すると断定していたし、ライプニッツのモナドという概念も、人間の心に世界がそのままで写しだされるという考え方を基礎としていた。しかし近代のある時点から(イギリス経験論のヒュームとドイツ観念論のカントからと言ってよいだろう)、この二つの秩序がどのようにして一致するかが問題となり始めた。  ヒュームは、人間の思考の秩序では、物の秩序は理解できず、二つの秩序の一致は保証されないと考えた。しかしこれに対してカントは、物そのものの秩序は認識できないかもしれないが、人間に認識された現象としての「物の秩序」は、人間の思考によって初めて可能になるものであり、当然ながら人間の思考の秩序と一致すると考えたわけである。  フーコーはこのカントの立論を踏まえながら、物の秩序を認識するためには、その認識を可能にする条件が必要であると主張する。フーコーはこの認識を可能にする条件を、〈歴史的ア・プリオリ〉というカント的な言葉で表現する。ある思想や科学が成立するためには、歴史的にみてア・プリオリな(その前提として必要な)条件が存在すると考えるのである。  するとこの視点は、第2章で述べた『臨床医学の誕生』を貫いている分析視点と同じものであることがわかる。『臨床医学の誕生』においては、ある物がみえるようになるということ、そしてみえるものを語るということがいかに困難であるかを明らかにしていた。一つの科学の誕生とは、それまでたんに網膜の像として写っていたにすぎず、〈みえる〉ものではなかったものを、〈みえるもの〉として認識し、それを言語で表現できるようになることと密接に関連していたのである。すなわちさまざまな物が一つの秩序をもつものとして認識されるためには、まずその秩序を構成する視点が確立される必要があるのである。  フーコーはこの書物の冒頭で、ボルヘスの「中国の」百科事典の分類を引用しながら、この分類を読んだ後の困惑は、「言語の崩壊してしまった人々の抱くあの深い困惑と無縁ではあるまい。場所と名のあいだの〈共通なもの〉が失われたということなのだ」と語っている。ボルヘスは、ある「中国の事典」の分類基準を次のように引用していた。 [#ここから2字下げ] a.皇帝に属するもの、b.香の匂いを放つもの、c.飼いならされたもの、d.乳呑み豚、e.人魚、f.お話にでてくるもの、g.放し飼いの犬、h.この分類自体に含まれるもの、i.気違いのように騒ぐもの、j.数えきれぬもの、k.駱駝の毛のごとく細い毛筆で描かれたもの、l.その他、m.今しがた壷を壊したもの、n.遠くから蠅のように見えるもの(『言葉と物』序) [#ここで字下げ終わり]  この事典が「お話にでてくるもの」と「数えきれぬもの」を並列するとき、そこに露呈するのは、さまざまな物はそれ自体で秩序をそなえているわけではなく、それを分類するまなざしが必要であること、そしてそのまなざしは、文化的な背景に応じて完全に異なったものでありうることであった。西洋の思考からみると、この「中国の」分類では「出会いの空間そのものが崩壊している」という印象を受ける。  分類という方法では、少なくとも三つの原則が必要である。存在するすべての物が、一つの秩序の中に完全に統括され、その外部には何も残らないようにすること(全体性の原則)、そしてその秩序の中では、互いに重複して分類されるようなものがないこと(排他性の原則)、最後に分類の基準が同じ〈階〉にあり、〈階〉を越えたメタ分類基準が存在しないこと(非超越性の原則)である。  この分類は、「l.その他」という項目で外部を包括しており、全体性の原則は満たしている。しかしたとえば「g.放し飼いの犬」と「m.今しがた壷を壊したもの」は互いに重複して分類される可能性があり、排他性の原則を満たさない。さらに「h.この分類自体に含まれるもの」はメタ分類の項目であり、この分類自体の意味を揺るがすものである。  フーコーが語るように、「物の間に秩序を設けるほど、暗中模索で、経験的なことはない」のであり、「これほど明晰な眼、これほど忠実でみごとに抑揚を付けられた言語を必要とするものはない。……秩序とは物の中にその内的な法則として与えられているもの、物が互いに見交わす秘密の網目である。しかしこれはまなざし、注意、言語の格子を通してしか実在しない」のである。  新しいまなざしが新しい物の秩序を開く。存在する物の秩序を認識するためには、物の認識に先だって一つの知の枠組みが必要である。フーコーはこれを、ギリシア語で「知」を意味するエピステーメーという用語で呼ぶ。この知の枠組みは哲学的な理論よりもはるかに強固であり、さまざまな学問の基盤にあって、学問そのものを可能にする条件であり、しかも学問自体には不透明な前提である。  フーコーはこの概念によって、物が一つの秩序の中において物として認識されるためには、一つの視点に立ったまなざしが必要であり、そのまなざしは文化的、歴史的に規定されたものであることを明らかにしようとするのである。  このエピステーメーという概念によって、それまで関係なく発生してきたと考えられるさまざまな学問が、一つの共通の基盤に基づいて成立していることが解明できるようになった。『言葉と物』では、このエピステーメーを考古学的に分析することによって、中世以降の西洋の歴史には、大きく分けて三つのエピステーメーがあることを指摘している。中世とルネサンスのエピステーメー、一七世紀半ば以降の「古典主義時代」のエピステーメー、一九世紀初頭から始まる近代のエピステーメーである。 †中世のエピステーメー[#「†中世のエピステーメー」はゴシック体]  フーコーによると、中世という時代の特徴は〈類似〉という概念にある。中世のさまざまな書物における人間と世界の関係は、すべて類似という概念によって語られている。世界に存在する諸物は、類似性のまなざしに基づいて秩序立てられ、理解された。中世の言語は「世界の鏡」のような役割を果たすのである。  フーコーは中世に特有の四つの主要な類似関係を確認している。まず世界の諸物の間には、隣接的な関係に基づいた〈適合〉の類似関係がある。植物と動物は成長作用において適合し、動物と人間は感覚作用において適合し、人間は他の星辰と知性において適合する。すべてのものが神にいたる〈世界の鎖〉に結びつけられ、互いに共鳴し合う。  さらに第二の〈模倣〉の類似関係によって、物とそのイメージは互いに現実性をおびる。鏡に写った物と別の鏡に写ったそのイメージのように物もその像も、どちらも現実であり、どちらも反射である。まるで双生児のように。地上の草は天空の星を反射し、人間の内なるミクロコスモスは天空のマクロコスモスを反射する。  第三の〈類比〉の類似関係は、ごくわずかな類似に基づいて、無数の近縁関係を作り上げる。星と天空の関係は、草と大地の関係、生物と地球の関係になぞらえることができる。しかしこの類似関係には、一つの特権的な場が存在する——人間である。人間は世界からさまざまな類似関係を受け取り、それを周囲の世界に再び伝播する。人間は類比の光線の焦点のような位置に立つ。  第四の原理は〈共感〉であり、世界のさまざまな物の運動を誘発し、すべての物を同一化してしまう原理である。そのためこれは反感という反作用を生み出し、これが世界のさまざまな物の自己同一性を形成する。  これを要約すると、自然の事物の間に鏡の反射のように存在する模倣関係が、鎖によって無限に連結され、それが人間という焦点を中心にして、それぞれの事物の独自性を形成すると考えることができるだろう。  しかし世界において物がこのような類似関係で織りなされ、世界の秩序の中で位置を占めているとしても、この類似関係は、ある徴《しるし》によって読み取られる必要がある。類似関係は、外部に見える徴《しるし》によって示される。これは物の秘密を明らかにする標識であり、〈神の署名〉である。  ルネサンスの哲学者のパラケルススは「神が人間のために作られたもの、神が人間に与えられたものが、隠されたままであるのは、神の望まれるところではない。……神はある種の物を隠されたが、すべての物に特別な標識と、外部に見える徴《しるし》を残した」と語っている。  このように、世界のすべての物はある秘密を語っているのであり、類似の空間である世界は、開かれた大きな書物となる。世界はおのずと秘密を語っているのであり、人間はそれを解釈すればよい。  このように、世界を解釈学と記号学で解読すべき書物とみなす中世のエピステーメーには、いくつかの問題がある。まずこの知は、過剰であると同時に絶対的に貧困である。記号の解釈によって無限に変奏できるという意味では過剰であるが、それが想像に基づいたたんなる解釈にすぎないという意味では貧困なのである。  類似関係によって世界を解釈しようとすると、たえず新しい類似関係が呼び込まれ、ついに世界全体を踏破しなければならなくなる。類似が類似を呼び、無限の連鎖を作るこの知は、「土台が砂のような」脆さを隠している。さらにこの知においては、博識と魔術を区別することができない。その好例が博物学者のアンドロヴァディの著した『蛇と龍の話』である。この書物では、蛇類一般について博物学的に記述しながら、蛇の種類、形態、解剖学的な構造、習性などの記述と区別することなく、怪蛇、神秘譚、奇蹟など、神話と魔術にかかわる話題が記述される。  これは現代からみると大きな欠陥であるが、この欠陥は世界を神の署名した物語として読むという中世のエピステーメーにおいては不可避なものであった。逆にこうした欠陥において、類似に基づいた中世のエピステーメーが成立することができたのである。 †エピステーメーの転換[#「†エピステーメーの転換」はゴシック体]  中世とルネサンスは類似の世界であり、人間というミクロコスモスが世界というマクロコスモスと通い合っている世界であったが、この世界は新しい時代の到来とともに崩壊する。これは物の伝統的な認識視座が崩壊し、新しい視座に変わるという出来事であり、その世界に生きている者にとっては〈世界の崩壊〉にも匹敵する事件である。  この事件を象徴的に描いているのは、一六〇四年に出版された『ドン・キホーテ』である。ドン・キホーテは昔の騎士の物語を現実の世界に読み込む。騎士物語に頭を毒され、「思慮分別をとうの昔失ってしまって、これまで世の気違いの誰一人として思いつきもしなかったような、およそ奇怪至極な考え(15)」に陥り、騎士として世界中を遍歴することを決心するのである。  この騎士は中世の類似の法則に従って世界を読み取ろうとするが、その当の世界はもはや中世の騎士の世界ではない。自分を騎士と信じているドン・キホーテを物笑いにして楽しもうとする宿屋の親父に代表される新しい世界である。そして世界のあらゆるものに類似をみる主人公は、完全な狂人として振る舞うことになる。中世において世界の解読の鍵であった類似と徴《しるし》は、もはや狂気の徴《しるし》でしかなくなったのである。このことは、この書物において類似が、非理性と空想の世界に入り込んだことを象徴的に物語るものである。  フーコーはここに、中世のエピステーメーと異なるまったく新しいエピステーメーの誕生を確認している。フーコーは「ある文化が、ときにはわずか数年で、それまでのように思考することをやめ、別のものを別の仕方で思考し始めるという事実」に注目する。  この新しい思考方法の誕生を象徴するのは、合理的で科学的な思考方法の先駆的な主唱者と考えられているフランシス・ベーコンと、近代哲学の祖ともいえるデカルトである。「一七世紀初頭、ことの当否は別として、バロックと呼ばれる時代に、思考は類似関係の領域で活動するのをやめる。相似はもはや知の形式ではなく、むしろ錯誤の機会となる」。 『ドン・キホーテ』の十数年後に書かれた『ノーヴム・オルガヌム』でベーコンは、人間の誤謬の原因としてさまざまなイドラ(幻像)をあげたが、その中でも種族のイドラは、物が互いに類似していると信じる誤謬である。「人間精神は本来、物の中にある以上の秩序と類似を想定しがちである。自然は例外と相違に満ちているのに、精神はいたるところに調和、合致、相似をみる。そこからあらゆる天体の運動が完全な円を描くというあの作りごとが生まれてくるのである」。  さらにデカルトは、一六二八年頃の『精神指導の規則』の冒頭で、「人々は、二つの物の間にある類似を認めるたびに、両者のうちの片方だけにおいて真であると認めたものを、実際には異なっている点についても、両方にあてはまると考えてしまうのである」と指摘していた。  ベーコンは、この誤謬を免れるために、精神の慎重さを求めるだけであるが、デカルトは、類似が知の基本的な経験であることを否定する——類似という概念の中に含まれる混同を指摘し、それを方法論的に純化するのである。デカルトは、人間の精神の働きは、ほとんどすべてが比較という操作によって行われることを指摘しながら、数と量の比較と秩序の比較を重視する。特に重要なのは秩序の比較の方法であり、ある項から別の項へ、さらに第三の項へと、比較によって連続的に系列を形成していくのである。デカルトの学問体系は、理性の力によって確実に認識できたものを連続的に結びつけることによって、大きな秩序を形成しようとするものであった。  フーコーは、ベーコンとデカルトを特に重視しようとするわけではない。この時代において、知の基準が類似関係から推論における同一性と相違性の基準に転換したことが、西洋の思考に重大な帰結をもたらしたと考えているのである。長い間にわたって知の基本的な概念であった〈類似〉のカテゴリーが、同一性と相違性のカテゴリーに転換したことによって、エピステーメー全体の基本的な布置が転換したのである。フーコーは認識を可能にするもの、知の対象の存在様態を可能にするものを分析する考古学的な考察を進めながら、このエピステーメーの転換を説明しようとする。 †古典主義時代のエピステーメー[#「†古典主義時代のエピステーメー」はゴシック体]  古典主義時代のエピステーメーの特徴は、ベーコンとデカルトの方法に顕著に示されているように、同一性と相違性に基づいて物の秩序を形成する方法である。このエピステーメーによって形成された平面的な空間を、フーコーは表《タブロー》の空間と呼ぶ。  この表《タブロー》の空間において誕生した新しいエピステーメーと、それを継いだ近代のエピステーメーを分析するにあたって、三つの学問が重要な位置を占めている。人間の生命、言語、労働・生産にかかわる学であり、近代において生物学、言語学(文献学)、経済学と呼ばれるようになる学問である。  それらの学問は古典主義のエピステーメーにおいては、博物学、一般文法、富の学問と呼ばれていた。博物学とは、自然の生物と生き物としての人間の学であり、世界の秩序の学である。この学では、自然の連続性と錯綜状態を分析するために〈特徴《カラクテール》〉という概念を使用する。一般文法は、人間の認識の発生に関する学であり、人間の知覚の分類と思考を可能にする方法を問う。富の学問は、必要や欲望に駆られた人間が形成する社会についての学であり、人間の欲望の間の等価性と相互的な財の交換を可能にする記号についての学である。  これらのすべての学が、物そのものの学ではなく、人間が物について思い浮かべるイメージである表象と、それを示す記号の学であることに注目する必要がある。古典主義時代の知は、表象と記号によって可能になった〈表《タブロー》の学〉である。生命や労働や言語そのものが分析されるのではなく、それぞれの要素について思い浮かべられた表象が分析されるのである。  しかし近代の初頭の一七七五年から一八二五年にかけて、これらの学が大きな転換を経験する。そして近代の科学である生物学、言語学(文献学)、経済学が誕生する。  今からみると不思議に思われることなのだが、近代的な意味での生命という概念も、言語という概念も、生産という概念も、一七世紀には存在していなかった。たしかに生物という概念はあったが、一回限りの生を送る個体の〈生命〉という概念は存在しなかった。さまざまな民族の言葉はあったが、それが歴史性のある言語として、人間の有限性を刻印すると同時に、自由の根幹にかかわるものであることは認識されていなかった。富という概念はあったが、それが人間の身体を消耗させる労働によって生み出される価値を含んだものであることは認識されていなかった。  近代の初頭に、生き、語り、働く人間の一回限りの生の固有性と有限性が認識され、これは表象の空間に還元できないものであることが認識されるにいたって、近代的な意味での生命、言語、生産という概念が誕生したのである。ここでは、古典主義時代のエピステーメーから近代のエピステーメーへの転換を、この三つの新しい概念の誕生を軸として考えてみよう。  その前に、もう一つ重要な点を指摘しておきたい。それはこの三つの概念が、近代にいたって初めて誕生したというだけでなく、近代の新しい諸科学の生誕の秘密を明かしているということである。フーコーは『狂気の歴史』と『臨床医学の誕生』において、近代の学問の重要な特徴は、人間がそれまでのように学問の主体であるだけでなく、初めて学問の客体となったことにあることを指摘してきた。そしてこれは、社会科学や人文科学を含む「人間科学」のすべてに共通する特徴である。人間が学問の客体として登場するということは、人間の生命、労働、言語の歴史性と有限性があらわになるということであった。 †博物学[#「†博物学」はゴシック体]  古典主義時代における自然の記述は、博物学と呼ばれたが、この学問の方法は、類似という方法論に基づいた中世やルネサンスの頃の自然の記述と比較するとわかりやすい。すでに述べたように『蛇と龍の物語』では、蛇の器官や習性について記述されているだけでなく、他の物との類似関係、それが登場する伝説、食物としての用途、それについて古代人が語っていることなど、蛇にまつわるすべてが語られていた。  生き物について記述するということは、その生き物と世界の間に張りめぐらされた意味の網目の内部において、〈物語〉を繰り広げることであった。現代の読者からみると、観察と伝聞の記録とおとぎ話という次元の異なるものが、異様なまでに混同されているようにみえるが、ルネサンス時代には、まだこうした分類が存在せず、表象が物と区別されていなかったのである。  これに対して古典主義時代になると、博物学者のヨンストンが『四足獣の博物誌』を著した際には、現代では当然に思われる分類に従っているのであり、龍についての神話は排除されている。神話やおとぎ話を、博物学という学問の著書の中に含めるべきではないという確信がどのようにして生まれたのか。  それは古典主義時代において、物を記述するということの意味が変わったからである。ルネサンスの時代までは、物の世界と記号の世界は、類似の法則によって結びつき、絡まりあっていた。物が記号の象徴となり、記号が物の象徴となるような寓意的な世界だったのである。  しかし古典主義時代の記述の方法は、この物の空間と記号の結びつきを断ってしまった。物と記号を結びつけるような物語を排除し、まなざしの空間に現れた表象だけを忠実に記述することが求められるようになる。博物学を支えているのは、語る可能性ではなく、みる可能性である。語られたことを記述するのではなく、ひたすら物それ自体に細心な視線を注ぎ、視線が採集した物を滑らかな中性的な忠実な語で書き写すことが重要なのである。  一八世紀にはルソーが植物採集という趣味に耽ったが、ルソーは植物について記述した古文書には見向きもせず、採集された植物の標本が形成する透明な空間に、恍惚として埋没していたのだった。古典主義時代に設置された標本陳列館や動植物園は、ルネサンスにおける見せ物の空間を表《タブロー》の空間に置き換える役割を果たした。物は視線によって新しい形で見られ、語られるのである。  博物学とは、可視的なものに名前を与え、分類する作業である。この時代は、まなざしに特権的な位置を与える。植物学の分類の基礎を築いたリンネは「植物のうちで、目にも触覚にも訴えぬ一切の偶有的な要素は…捨て去られねばならない」と語っている。リンネの植物学では、ルネサンス時代に重視された伝聞だけでなく、味や風味などの「不確実で変わりやすい」要素も排除された。  顕微鏡が活用されたのもその目的のためだった。レンズを通してよく観察しようとするには、他の感覚や伝聞による認識を断念しなければならない。顕微鏡はまなざしの支配を強化する。顕微鏡とは、それまで不可視であったものをみる道具であるよりも、まなざしの覇権を強化する道具なのである。  博物学は自然の存在を明示すると同時に、それを同一性と差異の体系のうちに位置づけることを課題とする。博物学においては、すべての個体はそれぞれの特徴に従って、連続的で整然とした普遍的な表《タブロー》の上に配置される。この表《タブロー》の存在によって、初めて経験的な個体の認識が可能になる。ある個体に固有なものを認識するためには、それ以外のすべての個体がすでに分類されていることが前提となる。そして分類の体系では、同一性は差異の残余としてしか残らない。ある動物や植物は、それに固有な特徴によって同定されるのではない。差異の一般的な網目の中で、初めて自己の同一性が確定されるのである。  近代の生物学においては、生物はその有機体の内的な法則に従って分類されるが、古典主義時代には、表《タブロー》の中での位置、すなわち種における名前によって決定される。リンネはそのことを「種属名は、いわばわれわれの植物学共和国の正規の貨幣である」と表現していた。  このように古典主義時代の博物学は、近代の生物学とはまったく異なる学問である。そもそも古典主義時代には、〈生命〉という概念が成立していなかったのである。存在するのは〈生物〉だけだった。古典主義時代の表《タブロー》の空間においては、言葉と物が密接に連関した秩序を形成していた。そのために物の秩序は言葉の秩序としてしか可能ではなかった。自然は名詞の格子を通して与えられていたのである。そして生物は世界のあらゆる物の系列の中で分類される。博物学者とは生命を扱う人間ではなく、生物を可視的な構造において分類し、これにその特徴を示す〈名〉を与える人間である。 †生物学の誕生[#「†生物学の誕生」はゴシック体]  フーコーは、表《タブロー》の空間に生物を分類し、記述する学である博物学は、そのままの形では生物学に発展することはできなかったと指摘している。生物学が誕生するには、生命という概念が誕生する必要があったのである。それには表《タブロー》の空間が崩壊し、生物が肉体の厚みと生命という脆い機能性をもった有限な存在であることが確認される必要があった。  この生命という概念と生物学の誕生を象徴的に告げるエピソードがある。一八世紀末のある日、それまでさまざまな生物が分類され、展示されていたパリの自然博物館を一人の学者が訪れ、生物を保管していたすべてのガラス容器を持ち去り、これを壊して動物を解剖したという。かくて動物はもはや身体の表面的な特徴から分類できるものではなくなり、生命機構と一回限りの時間性をもつ存在となった。  この博物学から生物学への転換を代表する学者が、ラマルクとキュヴィエである。獲得形質の遺伝に基づく進化論を説いたラマルクは、身体の表面に現れている器官と、隠された場所にあって本質的な機能を果たしている器官の関係を、身体の深層で把握しようとした。そしてラマルク以降、世界の物は鉱物、植物、動物、人間という伝統的な分類ではなく、生命のあるものと生命のないもの、無機物と有機体、生と死という基準に従って分類されるようになる。博物学の大きな表《タブロー》を突き破って生物学が登場するためには、生と死の基本的な対立が必要だったのである。  この身体の深みにおける生と死の意味を明らかにしたのが、パリの自然博物館の標本を解剖した比較解剖学者のキュヴィエである。キュヴィエは古典主義時代において理解されていた器官の意味を逆転させる。それまで器官は同一性のまなざしにおいて、可視的な構造と機能から分析されていた。しかしキュヴィエにとっては器官は、機能と構造の表《タブロー》の中ではなく、生命という統一的な機能を果たす身体の内部で不可視の機能を果たすものである。同一性と差異性のまなざしによっては捉えられない〈生命〉という概念が登場する。 『臨床医学の誕生』では、臨床医学が誕生するためには、解剖学によって人間の生命のない身体が解剖され、死を契機として生の概念が医学に取り込まれる必要があったことが指摘されていたが、生物学においても同じように、生命のある存在だけを分類するのではなく、生体を死すべき存在として理解する必要が生じたところから、生命という機能が認識されるのである。 [#ここから2字下げ] キュヴィエ以降、分類の外的な可能性を基礎づけるのは…生命である。秩序の大きな広がりの中にはもはや、〈生きることのできるもの〉という分類はない。分類の可能性は、生命の深層から、まなざしにもっとも遠い場所から訪れる。生物は、かつては自然の分類の一区画だった。しかしいまや分類しただけでは、生物のすべての特徴を明らかにすることはできなくなった。……かくて自然に関する一般的な学問の基盤と基礎としての秩序の探求は消滅する——「自然」が消滅するのである。(『言葉と物』第八章) [#ここで字下げ終わり]  フーコーは、科学史の通説においてはラマルクが革命家であり、キュヴィエは反革命家であるかのように描かれていることを笑う。ラマルクはまだ古典主義時代の博物学と同じようなさまざまな物の存在論的な連続性を前提として、種の変異を考えようとしていたのであり、まだ博物学の枠組みから脱けだしていないのである。  キュヴィエは古典主義時代における諸存在の階列の中に、根源的な不連続性を導入した。進化論的な思考の可能性は、この不連続性において胚胎するのである。「空間的な不連続、表《タブロー》の破壊、あらゆる自然の存在が整然とその場所をみいだしにくるあの連続面の細分化、そうしたもののおかげで、いまや博物学に代わって自然の〈歴史〉をおくことが可能となった」。ここに生物の中に時間性と歴史性が導入された。種の不変を主張したアリストテレスの基本的な構想が崩壊し、生物は時間的に進化し、滅亡する存在となったのである。 †一般文法[#「†一般文法」はゴシック体]  ルネサンスにおいては〈聖なるテクスト〉が存在していた。学者はそのテクストを注釈することに一生を捧げたのである。しかし古典主義時代においては〈聖なるテクスト〉は消滅し、実在の事物とは独立した〈表《タブロー》〉の空間の中で、表象によって紡《つむ》ぎ出された言語表現を批評することが課題となる。注釈はテクストの誕生の過程を繰り返し問い続け、言語を神聖化するが、批評はテクストの真実性を問題にしながら、言語を冒涜するのである。テクストではなく、言語表現、すなわち言語の記号によって表象された表象そのものが主役となる。  古典主義時代において、この言語表現を対象とする学が誕生した——一般文法である。この一般文法を言語学と考えてはならない。あくまでも言葉の記号の列としての言語表現の学である。この言語表現の学が必要となるのは、言語には線条性という特質が存在するためである。われわれは「鮮やかな色の薔薇」を思い浮かべる時には、一瞬のうちにこれを表象することができる。しかし言葉の記号の列においては、それを一語一語順に表現する必要がある。「鮮やかな」という言葉は「薔薇」という言葉よりも前に語られなければならないのであり、この順序はさまざまな言語においてほぼ一義的に決定されている。「思考は単一な操作であるとしても、言表することは継起的な操作」だからである。  これが言語と表象の主要な相違であり、言語は、同時的に存在するものを一つの順序に置き換える。これは空間の中に一つの秩序を創設することに他ならない。この秩序の学は、表象と言葉(記号)の関係の学であり、人間が互いに意志を伝達し合う手段に関する学問というよりも、表象と認識の可能性をもたらすものについて反省する学である。  ここに古典主義時代において一般文法が占めた重要性が明らかになる。古典主義のエピステーメーが表象の空間に宿っていたとすると、その表象の空間を構築するのは言語だった。そして一般文法は、言語がこの表象の空間をいかにして創設するかを明らかにする学なのである。  この表象の一般的な体系には一つの中心が存在する——〈名〉である。ここは表象の一般的な分類法の可能性と原理が宿る場所である。「名指す」とは、ある対象に言語表象を与えるとともに、その表象を一般的な表《タブロー》の中に位置づけることである。古典主義時代の言語理論のすべては、名詞という特権的で中心的な存在の回りに組織される。〈名〉こそは、すべての言語表現が収斂する場だった。この場は、物それ自体が混濁なしに名指されるような完全に透明な言語を確保しようとするユートピア的な思想に依拠していた。古典主義時代のすべての言語表現は、この〈名〉によって組織される。二世紀にわたって西洋の言語表現の基本的な役割は、「物に名前を与え、この名前において物の存在を名指す」ことにあった。 †言語学の誕生[#「†言語学の誕生」はゴシック体]  このエピステーメーが転換し始めたのは、一八世紀末に大規模な言語の比較分析が試みられてからである。諸言語の比較は、表象の内容という古典主義時代の伝統的な観点から行われることが多かったが、この比較の試みによって、意味内容の分析と語源研究とは異なる新しい観点が誕生した。言語を語の屈折から解析する試みが登場したのである。屈折という観点そのものが新しいのではない。それまでも語尾の変化という観点から屈折について考察されていた。しかしこの時期に注目されたのは、語尾の同一性と語根の変化である。たとえばサンスクリット語、ラテン語、ギリシア語で、存在を示す「ある」という動詞を比較してみると、単語(語根)自体には大きな変質がみられる。しかし語尾の屈折には明瞭な法則性が存在する。これが意味していることは、言語を比較する際には、〈名〉だけを比較していたのでは、言語の関係を理解できないということである。意味や表象からは付随的なものとしか考えられない語尾の屈折という要素が、「形態においては恒常的でほぼ不変の総体を構成している」ことが確認されたのである。こうして言語表現の分析においても、表象に還元できない要素が導入された。  この言語の比較分析によって明らかになったのは、「言語の内部構造の比較、すなわち比較文法」が重要であるということだった。この当時、比較文法は、博物学における比較解剖学と同じような役割を果たすことが期待されていた。この諸言語の内部構造の比較という試みによって、一八世紀における言語の階層構造が崩壊する。  かつては表象の分析が的確で、精密に行われるかどうかで、さまざまな民族の言語の間に階層的な序列が成立すると考えられていた。しかしいまや言語に優劣はなくなる。それぞれが異なった内部の組織をもつにすぎない。そしてこの内部の組織は、記号だけで形成されているものではない。いまや言語は、音声学的な諸要素の総体として取り扱われるようになる。表象の空間における言語表現の分析よりも、言葉の音の解剖学が重視されるようになり、名詞よりも動詞が重視されるようになる。ここで誕生したのは、一つの内的な構造と固有の歴史性をもった生きた言語体系であった。  言語が固有の歴史性をもつことがあらわになるとともに、言語の透明性と、知の領域における重要性が失われる。古典主義時代の言語では、表象が鎖のような連鎖として展開されたが、「一九世紀には、言語はそれ自身の上に折れ重なり、固有の厚みを獲得し、言語だけに属する歴史と法則と客体性を展開する」。  そしてこの時、言語は物の認識につながるのではなく、人間の自由と結びつく。フーコーが『言葉と物』で指摘しているように、ドイツ語辞典を作成したグリムは、言語の政治性を十分に認識していた——「言語は人間的なものである。それはその起源と進歩をわれわれのまったき自由に負っている。言語はわれわれの歴史であり、われわれの遺産なのである」。 †富の理論[#「†富の理論」はゴシック体]  博物学が生物学でありえなかったのは、〈生命〉の概念が存在していなかったからであるが、古典主義時代の富の分析が経済学でありえなかったのは、〈生産〉という概念が存在していなかったからである。古典主義時代の富の分析においては、貨幣と富、価値と価格が一貫して混同され、価値を生みだすものが人間の労働(生産行為)であることが認識されていなかったのである。それでは、近代経済学の基礎となった労働価値説はどのようにして誕生したのか。  大学の教養課程で学ぶ経済学史では、近代経済学が誕生するまでの経過を概ね次のように説明する——まず絶対主義の経済理論として重商主義が登場する。重金主義とも呼ばれたこの理論は、富を貨幣と同一視するものであった。その後、貨幣の恣意的な性格が明らかになると、貨幣と価値の理論が区別され、価値そのものが考察されるようになる。まず重農主義は、土地だけが富を生み出すものであると考え、生産機構そのものを分析した。この理論では、富が交換されることによってはじめて価値が生み出されると考える。また、当時この重農主義に対立していた有用性の理論は、富が交換されるから価値が生まれるのではなく、商品に価値が内在するからこそ交換されると考え、価値についての一般理論を展開した。最後に生産の分析に関する新たな解釈が行われ、イギリスのアダム・スミスが『諸国民の富』で分業の発展のプロセスを解明し、労働価値説を確立したリカードが資本の役割を解明する。イギリス古典学派の成立である。  しかしフーコーは、この伝統的な解釈は未来の視点から古典主義時代を眺めているにすぎないと批判する。近代のエピステーメーに基づいて、古典主義時代のエピステーメーを解釈しているにすぎないのである。重要なのは、近代のエピステーメーからその時代の知がどのようにみえるかではなく、その時代のエピステーメーのどのような構造と分節によって、さまざまな知が可能となったかである。  フーコーは富の問題を、貨幣と価値の理論によって鋭く分析しているが、ここでは価値の理論についてのフーコーの理論展開を調べてみよう。フーコーは価値の理論を考察するために、当時「対立」していた二つの学派の理論を比較検討する——重農主義と有用性の理論である。  重農主義は経済学史では一般に、地主の利益を代表すると考えられているが、この理論では、価値や富が存在するためには、交換が可能でなければならないことを前提としていた。重商主義では富や価値が貨幣にあると考えたが、重農主義では富や価値は、交換の体系の中で初めて生まれると考えるのである。  重農主義にとっての商業とは、価値を生みながら、財を損耗する活動である。工業も価値の形成に必要な経費をまかなうことはできない。製造によって価値が増大するようにみえても、実際には生産に携わった人々の報酬として財が消費されるのである。財の消費において価値が発生するのであり、労働は支出として機能する。これは農業労働についてもあてはまる。重農主義においては、価値を作り出すのは人間の労働ではなく、自然の土地である。  このため重農主義では、農業労働ではなく地代が重視される。地代は純生産物を表すものであり、豊饒な自然が与える農産物の富と、地主が前払いで支払う代価の原初的な交換だけが、絶対的な利益を生み出す。このように重農主義の理論は、交換においてまず剰余が存在する場所、すなわち地主の側から出発する。土地という自然の産物を生む源泉からみると、労働者とは自然の産物を消費する存在である。価値は労働からではなく、交換によって生じるのである。  これとは逆に、商業階級の利益を代表すると考えられている有用性の理論は、交換において剰余を与える側ではなく、剰余を受け取る側を出発点に選ぶ。重農主義が、いかなる条件のもとに、どの程度の経費をかけて、財が交換体系における価値となるかを問うのに対して、有用性の理論はいかなる条件のもとで、同じ交換体系において財がいかにプラスの価値をもつようになるかを分析する。  フランスの哲学者のコンディヤックは、価値が有用性から発生するという立場から、「あるものが価値をもつとは、それがなんらかの用途に役立つこと、あるいはそれがなんらかの用途に役立つとわれわれが見積もることである」と語っているが、これは交換されることに価値を見いだしている重農主義の理論とは対照的である。交換されるから価値が生じるのではなく、有用な価値があるから交換されると考えるのである。  この重農主義と有用性の理論は、対立した理論のようにみえながらも、基本的な命題は一致している。あらゆる富は土地から生じ、物の価値は(労働ではなく)交換との関係において分析される。貨幣は流通状態にある富の表象として価値をもち、流通は可能な限り単純で完全なものでなければならない。この同じ前提に基づいて、二つの理論は「線分を逆に進む」だけなのである。  コンディヤックの有用性の理論は、有用性がすべての価値の主観的な積極的な基礎であると考え、これを交換することから出発する。物品の加工や運搬は、この有用性を高める意味で、価値を増大させる。この価値の増加分から、労働者に支払いが行われる。しかし価値を構成するこれらの要素は、人間が欠乏状態にある、すなわち自然の生産性に限りがあることを前提としている。  重農主義はこの系列を逆に辿る。土地の生産物に加工すると労働者に支払いを行わねばならず、財の総計は減少する。だから価値が出現するためには、際限のない自然の豊饒さが必要とされる。学説史ではこの二つの学を対立させ、それを地主階級と商人階級の対立として理解する。  しかしこれらの対立する学説は、同じ基盤の上に立って、片方がプラスの記号を読むところにマイナスの記号を読むだけの違いしかないのである。これらの学は、いずれも人間の欲望に基づいて、市場という場において財が交換され、価値が発生すると考えていた。これらの理論は、その財に対する人間の欲望を想定することで、交換と価値が発生すると考えるものである。しかしこの欲望の表象に基づいた理論体系に、人間の労働という異質な要素が導入されることによって、富の理論は崩壊する。 †経済学の誕生[#「†経済学の誕生」はゴシック体]  労働による生産という概念を富の分析に導入することによって富の理論を崩壊させたのがスミスであり、この概念に基づいて経済学を完成したのがリカードである。たしかに労働という概念は、それまでの富の分析でも利用されていたが、その意味が異なるのである。スミスが労働という概念を発明したわけではなく、この概念を新しい視点のもとで、富の分析に導入したのである。  コンディヤックが認識論的な視点から使用した労働という語は、あくまでも欲望の表象の空間の中で抽象化された人間の営みとしての労働である。これに対してスミスが導入したのは、人間が限りある一生の時間において、自分の身体を損耗させながら行う労働という原理である。  この労働は表象の外部の条件であり、表象の空間から溢れでる。欲望の対象である物品の等価性は、もはや他の物品や欲望との関係においてではなく、それらとは根源的に異質なものを通じて決定されるようになった。フーコーが指摘しているように、「富に秩序があり、これであれを買うことができ、金が銀の二倍の価値があるとすれば、それはもはや人間の欲望が比較できるからではない。身体を持つ人間が同じ飢えを感じるからでも、人間の心が同じ魅惑のとりこになるからでもない。人間が時間、労力、疲労、さらに究極において、死そのものに支配されているからである」。  しかしスミスのこの労働の概念には、まだ表象の空間に囚われているところがあった。スミスは商品の価値の尺度は労働であると主張しながら、商品は一定の労働を表象し、労働は一定の量の商品を表象すると考えていた。人間の活動と物の価値が、まだ〈表象〉の透明な境位で連絡しているのである。リカードの仕事は、この透明な境位を破壊し、労働者が提供する労働と、交換価値を形成する労働を区別することであった。  リカードが価値の源泉と考えたのは、もはや古典主義時代のように表象の能力によって規定することはできない人間の生身の労働である。リカードは人間の身体を消耗させる労働という概念に基づいて、価値の形成と価値の表象性を分離させた。これによって経済という概念そのものに、時間と歴史が浸透し始める。  リカードにおいてはこの歴史は、窮乏の歴史であり、財の稀少性の歴史であった。「歴史の一刻一刻において、人間は死の脅威のもとで労働するほかない。すべての住民は、新しい資源をみいださなければ、消滅するように運命づけられている」。このように経済を可能とし、必要とするのは、稀少性という基本的な状況であり、労働はこの稀少性を一時的に克服し、一時的に「死に打ちかつ」方法である。 [#ここから2字下げ] ホモ・エコノミクスとは、人間自身の欲求と、欲求を満足させる物を、自らのうちで表象する人間ではない。差し迫った死から逃れるため、その生涯を過ごし、すり減らし、失っていく人間にほかならない。それこそ有限な存在なのである。(『言葉と物』第八章) [#ここで字下げ終わり] 『人口論』のマルサスは、人間の数の増加という人間学的な状況から経済学を考察したが、稀少性を根本的な原則とする経済学は、人間の死と有限性という基本的に人間学的な原理に依拠している。マルクス主義についても同じことがあてはまる。マルクス主義においても、労働は人間の本質的な行為であるが、歴史的な条件が人間の労働を疎外していると考える。そして窮乏によって死の脅威にさらされたプロレタリア階級にとっては、革命によって人間の本質を疎外から回復させる以外に、この死の脅威を逃れる手段はないとされるのである。  ここでも、人間の有限性、財の稀少性、労働の本質性という基本的な枠組みは同じである。古典経済学とマルクス主義経済学の対立とは、同じテーマの二つのヴァリエーションにすぎないとフーコーは指摘している——「マルクス主義は一九世紀の思考において、水の中の魚のようなものであり、それ以外のどこでも呼吸できなかっただろう」。 †人間の誕生[#「†人間の誕生」はゴシック体]  この生物学、言語学、経済学の誕生によって、それまでに存在しなかったある概念が誕生した。これが〈人間〉という概念である。生物という概念は昔から存在していたが、生命という概念が誕生したのは一八世紀半ばであったのと同じように、人間は昔から存在していたが、これらの学によって定義されるような〈人間〉という概念が誕生したのは、一八世紀半ばになってからのことである。  古典主義時代自体のエピステーメーでは、人間の本性と自然の本性は対立することなく、同じ構造をもっていると想定されていた。「自然と人間の本性は通じ合う」のであり、表象の連鎖は、地上の無秩序の中に諸存在の断絶のない連続性をみいだすことができた。スピノザの語ったように、物の秩序は観念の秩序と同じであり、「人間は自らの表象を表象する力をもつ言語表現の至上性の中に、世界をとりこむことができる」のである。  この古典主義時代の表《タブロー》において、人間は神にも似た至高の位置を占めている。世界の中に秩序をみいだすことができるのは、人間が表象し、語るからである。しかしこの至高性にもかかわらず、逆説的なことに、人間は不在なのである。あるのはまなざしだけであり、人間が生身の身体をもった客体として表《タブロー》の中に登場することはない。  このエピステーメーにおいては、人間の認識が分裂しているのである。至高の人間は、まなざしを行使する主体として表《タブロー》の空間の外部にいる。しかし表《タブロー》の内部では人間は、地球にすむ動物の一つの種として扱われている。この空間には語り、労働し、生きている個人としての人間は不在なのである。  近代の知の大きな特徴は、考古学的な変動によってこのまなざしと表《タブロー》の空間が崩壊し、そこに生身の人間が登場することである。人間は「知にとっての客体であるとともに認識する主体として、その両義的な立場において登場する」。フーコーが『言葉と物』の第一章「侍女たち」で分析したベラスケスの絵においては、王の位置は不可視であり、まなざしの場として確保されていただけである。しかし近代とともに実際の人間が、排除されていた〈王〉の場所に登場する。狂気のリア王のように失墜した〈王〉として、労働と生命と言語に支配された有限な存在としてである。人間の表象はもはや至上の空間において、物を秩序づける表《タブロー》を展開する力を失ってしまっている。  しかしこれは、人間が至高な主体としての位置から転落したことを意味すると同時に、一つの逆転をもたらすものだった。近代の思考にとっては、人間の有限性とは生命、労働、言語の実定性であるが、それが神という無限の能力をもつものに対して否定的に構成されるのではなく、逆に認識の限界が、生命、労働、言語についての知の可能性を積極的に基礎づけるようになる。カントの超越論的な哲学の意味はここにある。 『純粋理性批判』においてカントは、批判哲学はコペルニクス的な転回を意味すると誇ったが、これは人間の知が人間の認識の有限性によって初めて根拠づけられるという確信であった。自然がニュートンの法則に従うのは、人間は物自体を認識できるからではない。人間がニュートンの法則を適用するのが、人間が認識できる限りでの現象としての世界に他ならないからである。すなわち、人間の認識と知の真理の根拠は、人間が物自体ではなく、現象しか認識できないという認識能力の有限性そのものにあるとされたのだった。 †人間科学の誕生[#「†人間科学の誕生」はゴシック体]  ここに〈人間〉という概念が登場するとフーコーは考える。ルネサンス時代のユマニスムも、古典主義時代の合理主義も、世界の秩序の中で人間に特権的な場所を与えることはできたが、肉体をもち、労働し、言語を話す実存としての〈人間〉を思考することはできなかった。これは近代の有限性の思考によって初めて可能になったのである。「われわれの近代性の端緒は、人々が人間の研究に客観的な方法を適用しようとした時ではなく、〈人間〉と呼ばれる経験的=超越論的な二重体が作り出された日に位置づけられる」。  そしてフーコーは経済学、生物学、言語学などの学問と「同じ種子」から、一連の「危険な中間物」のような学問が派生したと考えている——これが人間科学と呼ばれる学問である。これは人間の有限性そのものを対象とするのではなく、人間の活動のメカニズムがいかにして生まれ、展開されるかを明らかにしようとする学問である。  この「危険な」学問としては、心理学、社会学、文化史、思想史、科学史などがあげられる。生物が表象の可能性に対して開かれる場に、心理学の領域が誕生する。労働し、生産し、消費する個人の活動についての表象の場に、社会学の領域が開ける。言語についての表象の戯れの場に、文化史、思想史、科学史の領域が形成される。  ここでフーコーは、心理学の科学性を批判し、その誕生の秘密を明らかにするという『狂気の歴史』の課題を反復しているのである。『言葉と物』は、ある意味ではフーコーが一生を通じて書き続ける〈心理学の誕生〉という書物の一章だった。心理学が科学性を僭称していることを指摘したのが『狂気の歴史』であったが、この『言葉と物』は、エピステーメーの布置そのものから、心理学の科学性を否定する。人間科学は、生物学、経済学、言語学の傍らに宿っている限りで存在できるものにすぎず、それらの実定性を規定したエピステーメーの布置そのものが、人間科学が「科学であることを不可能にする」のである。 †人間の終焉[#「†人間の終焉」はゴシック体]  しかし誕生した〈人間〉は短命であった。フーコーは生まれたばかりのこの〈人間〉の終焉を宣言するのである。フーコーは三つの学問において、人間の終焉が宣言されていると考えている——精神分析、文化人類学、そして構造論的な言語学である。これは当時のフランスにおける構造主義の代表的な学でもあった。フーコーが構造主義的な方法に魅惑されたのは、レヴィ=ストロースの文化人類学においても、ラカンの精神分析においても、ソシュール以降の言語学においても、歴史的な〈主体〉としての人間の終焉が宣言されているからであった。  構造主義的な言語学と、この言語学を手本とした文化人類学と精神分析が告知しているのは、〈人間〉という概念の消滅の時期が近いことである。「人間は、われわれの思考の考古学によって、その日づけの新しさが容易に示されるような発明にすぎない。そしておそらくその終焉は間近である」。近代のエピステーメーが崩壊した時には、新しい発明である人間は、「波打ち際の砂の上に描いた顔のように、消滅するだろう」。 †『言葉と物』の方法論[#「†『言葉と物』の方法論」はゴシック体]  フーコーの『言葉と物』は、言語表現という秩序において、西洋の思想の歴史における基本的な枠組みを解明しようとするものであったが、その基本的な枠組みとして提示された〈エピステーメー〉という概念の難点のために、発表直後から、さまざまな批判に直面する。  このエピステーメーという概念には、エピステーメーの不連続性を主張しながら、その不連続性の由来を説明できないという制約があった。しかし考えてみると、これは考古学という方法論の根本的な考え方から導き出された制約であった。フーコーはその不連続性を説明することを、方法論的に禁欲するのである。考古学の課題は、知の歴史の経過とそのための条件を分析することであり、鳥瞰的な立場から、時代がこのようにしてこのように変化した、と超越的に語ろうとするものではない。  フーコーの考古学には、つねに「現代の診断」という意味があった。歴史的または尚古的な興味から、中世や古典主義時代のエピステーメーを分析するのではない。現代の知の意味をその歴史的な背景から問おうとするのである。アルケオロジーが〈考古学〉であるのは、ある時代の中に立った人間が、自己を形成している無意識的な知を解明するために、自分の足元を発掘するからである。絶対的な知に到達するためでも、そうした知を所有しているためでもない。哲学に〈考古学〉の方法が必要となるのは、明晰な自己知が存在しないという認識があるからである。  しかしフーコーのこの方法論的な〈禁欲〉に対して、大きく分けて二つの批判が集中した。一つは、この考え方は不可知論につながり、歴史の意味と進歩的な政治活動の根拠を奪うという批判である。もう一つは、このエピステーメーは世界観のようなもので、その時代において別の方法で思考することはできないのではないかという批判である。映画監督のゴダールは、「ぼくがフーコーをそれほど好きでないのは、〈この時代には人はこのように考え、ある時期からはこのように考えるようになる……〉と指図するからだ」と語っていた(16)。  たしかにエピステーメーという概念を考古学の方法から独立させた場合には、それが世界観のような全体的な思考のための概念となってしまう危険性があった。その場合には、この概念が社会を改革しようとする運動の〈枷〉となるかのように誤解される可能性が残されていた。こうした誤解を防ぐにはどうすればよいか。  フーコーは『言葉と物』の発表の直後からこの問題に取り組む。この成果が『知の考古学』である。この書物の戦略は二つある——エピステーメーの概念を言語表現の領域に限定し、方法論的に厳密に確定することによって、世界観のような概念であるという批判を退けること。同時に、歴史の目的性の概念を批判することによって、進歩的な政治活動を阻害するという批判に逆襲すること。エピステーメーの概念が、進歩的な政治活動の根拠を奪うという批判が生じるのは、マルクス主義的な歴史観に基づいて、人間の歴史が一つの目的に向かっていて、それに寄与する行為が「進歩的」であるという先入観があるからではないか。進歩とは、一つの目的に向かっての進歩だからである。 †歴史の目的性の批判[#「†歴史の目的性の批判」はゴシック体]  歴史には目的がある——これは西洋の基本的な考え方である。キリスト教の全体がこの世の終末と最後の裁きという思想に依拠しているだけではない。ヘーゲル主義を継いだマルクス主義も、キリスト教を批判しながら、やはり終末論的なイメージを提示していた。現在は人間の歴史の「前史」にすぎず、革命によって初めて人間の歴史が始まるというのである。現代哲学の分野でも、フッサールは『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』という書物で、西洋の文明は、ギリシア哲学の端緒に胚胎されていた人間性が、最終的な目標(エンテレキー)として実現される特権的な文明であると主張していた。  フーコーが批判するのは、このような伝統的な思想史の前提となっている歴史の目的性の概念である。歴史が一つの目的をもち、その目的に向かって進んでいくと考えると、歴史は連続していることになる。フーコーは、もしも歴史が中断なく連続したものであれば「歴史は意識にとっての特権的な隠れ家」となると批判する。歴史に連続性があるとすると、意識と主体の理論はそれを手掛かりに、歴史の目的と意味を復活させ、至高の主体としての位置を確保するようになるだろう。意識を逃れるものを再び取り戻し、それらの事物のもとで自己の支配を回復し、自己の棲家を見いだすことができるようになるだろう。  フーコーが主張したいのは、歴史の目的と連続性という概念のもとで、古代からの歴史が一つの目的論の糸で縫い取られているのであれば、人間という主体はつねに自己の位置を歴史の中にみいだすことが可能となるということである。  歴史に目的性を持ち込むと、歴史は現在あるいは未来の一点で終焉することになり、時間は全体性の観点からみられるようになる。もしも歴史を終焉の視点から振り返ってみると、たとえ歴史の目的に反しているようにみえる行為でも、〈歴史の狡智〉によって、その目的に到達するまでの紆余曲折の一つのプロセスとしてみることが可能になる。フーコーは、この歴史の連続性の概念は、人間学と主体論の〈古い砦〉であり、人間学的な思考の強力な守護者であると考えていた。  この歴史の目的論という理論は形而上学的な理論であるだけに、それを批判するフーコーの理論にも形而上学的な残滓がつきまとっているようにみえる。しかしフーコーは単にここで歴史の連続性の理論を批判するだけでなく、この概念を解体するための新しい概念を提示している——差異と事件という概念である。  ドゥルーズを思わせるこの〈差異〉という概念は、思考の一回性、事件性を強調するものであり、同一性と全体性を否定する〈他なるもの〉の概念によって、歴史の連続性の概念が背景に潜めている同一性の哲学を批判することを目的とする戦略的な概念だった。 †ディスクール、エノンセ、アルシーヴ、知[#「†ディスクール、エノンセ、アルシーヴ、知」はゴシック体]  この差異と事件という概念に依拠して、エピステーメーの概念の適用範囲を厳密に限定するために提示されたのが、ディスクール、エノンセ、アルシーヴ、知などの一連の概念である(言語学ではディスクールは言語表現や言説と訳され、エノンセは言表と訳されることが多い。さらにアルシーヴとは古文書(館)という意味をもつ用語である。しかしこれらの用語はフーコーにおいては、言語学や図書館学の用語とは異なる特殊な意味をもち、翻訳になじまないので、フランス語の読みのままで表記したい)。  フーコーの定義では、エノンセ Enonce とは、行為によって実際に語られたものを意味し、これがディスクールの単位となる。そしてさまざまなエノンセがある全体的なまとまりを作る場合に、そのまとまりをディスクール discours と呼ぶ。このまとまりがどのようにして作りあげられるかを問うのが、考古学の重要なテーマである。  しかしこのディスクールという概念において重要な点は、ディスクールが単にエノンセの集合ではないことである。「ディスクールとは、その時代において人々が正確に言い得るであろうものと、実際に言われたものの差異によって構成される」。ディスクールを分析する際には、それが一つの統一性をもつ集合として認識されるためになにが必要であったかが重視されるのであり、たんにエノンセの総体がそのままディスクールになると考えるのではない。  同じようなことを語っているようにみえる二つのエノンセの片方が生物学のディスクールに分類され、一つは哲学のディスクールに分類されるという事態が発生することがある。たとえばディドロの進化論的なエノンセは、科学ではなく哲学のディスクールに属するものと判断された。これに対してダーウィンの進化論的なエノンセは哲学ではなく、生物学のディスクールに属すると判断される。この違いを生み出すものはなにか。その理由を分析するのが考古学である。  もう一つの重要なポイントは、ディスクールが「差異」によって構成されているということである。ディスクールの総体はつねに言い得るはずでありながら、表現から排除されたもの、あるいは「意識の白い闇の中で表現になり得なかったもの」についてのまなざしにおいて構成される。一つのディスクールの内部で可能だったはずのエノンセが、実際には語られなかったのはなぜか。  フーコーはそれを、ディスクールの領域からのエノンセの排除の構図として分析する。いずれ取り上げられるテーマで言えば、性についてなぜ「このこと」が言われるのか、あるいはなぜ「このこと」は言われないのかという観点から、ディスクールを分析するのである。フーコーは「このエノンセが登場するのはなぜか、なぜ他のエノンセがその場を占めないか」と問いながら、ディスクールの編成というテーマを分析する。  このディスクールの概念は、フーコーにとっては、伝統的な歴史学の人物中心主義の方法とは異なる方法で歴史を分析しながら、しかも歴史の目的論を退けることができるという意味で、重要なものである。フーコーがディスクールにおいて、実際に語られたことだけを対象とするのは、歴史には一つの目的があるという考え方に潜む〈罠〉にはまらないようにするためである。ディスクールの背後に〈言われざる声〉の存在を想定した上で、ディスクールや事件を解釈すると、究極的にはこの〈罠〉にはまってしまうのである。  さらにフーコーはアルシーヴ archives という概念を提示する。古文書(館)という意味をもつこの単語は、考古学 archelogie という語の由来を説明する興味深い概念である。フーコーは人間の幻想が累積された〈図書館〉という概念に魅惑されていたが、アルシーヴとは現実の文書の総体ではなく、事件としてのエノンセ(エノンセ的行為)の不可視の総体である。これはある文化において保存されたテクストの総体でもないし、ディスクールを記録し、保存することを可能にする制度でもない。  すでに指摘したように、ディスクールは、語られたエノンセと語られなかったエノンセの差異として定義されていたが、このアルシーヴという概念は、さまざまなエノンセが実際に歴史において語られた条件を明らかにするものである。あるエノンセが語られるためには、ディスクールの内部、諸ディスクール間、ディスクールの外部において、さまざまな条件が必要であったはずである。  たとえば『ドン・キホーテ』を境として、もはや騎士物語は語られなくなるが、それはどのような条件に従っているか。またゴシック・ロマンが誕生するには、社会的、経済的、文学的にどのような条件が必要とされたか。  また語られた一つのエノンセが、記録されて後代に伝えられる条件はなにか。そのエノンセを記録する目的はなにか。どのような集団がこれを記録し、解釈し、活用するか。  エノンセが誕生するための実定的な条件を分析するアルシーヴという概念は、たんにディスクールの内部を分析するものではない。実際に語られたエノンセを、歴史における一つの事件、一つの〈記念物《モニユマン》〉として考察しながら、ディスクールの存在の条件を分析し、ディスクールが展開される場の可能性を考察するものである。  このアルシーヴという概念は、歴史において起源《アルケー》を探り出す試みが、一つの目的論に結びついていることを明らかにしながら、超越論的な目的論の無効性を宣言する。そして人間学的な志向が人間の存在やその主体性を問う場所で、実際に語られたエノンセの一回限りの事件性を分析する。フーコーの考古学(アルケオロジー)とは、ディスクールの起源《アルケー》を探る学ではなく、アルシーヴの学なのである。  このアルシーヴという観点からみると、人間という存在も、可能であったはずのさまざまなディスクールの一つのヴァリエーションにすぎない存在であり、歴史における一つの差異にすぎないものにみえてくる。理性とはディスクールの差異であり、歴史とは時間の差異であり、自我とはさまざまな仮面の差異にすぎない。そして人間の自己同一性とは、歴史の連続性に基づいた仮説にすぎない。  これらの概念は、歴史の目的性という理念を解体することを目的としていたが、さらにフーコーはエピステーメーの概念を作り替えるために、〈知 savoir〉と〈知識 connaissance〉という区別を導入する。〈知識〉とは、科学的なディスクールを可能にするものであり、一つの学を前提とした上で、その学の領域のなかでなにが語られるかを示すものである。一方、〈知〉とは単なる情報または意見の総体ではなく、さまざまなディスクールの領域において人々が語り得るものの総体である。これは、主体がみずからのエノンセにおいて位置を占めることのできる空間であり、さまざまな概念が出現し、明確にされ、変形されるエノンセの場所でもある。  たとえば臨床医学の知とは、医学的なディスクールの主体が行使し得るまなざし、質問、解読、記載、決定などのさまざまな機能の総体である。この知という概念は、『言葉と物』のエピステーメーという概念と共通するところがあるが、それをディスクールの領域に限定することによって、エピステーメーが一種の世界観であるとされた誤解を防ごうとしているのである。 †新たな方向性[#「†新たな方向性」はゴシック体] 『言葉と物』で採用された考古学の方法では、人間科学の誕生する条件とその土台が発掘された。そして『知の考古学』において考古学についての方法論的な考察が深められることによって、新しい方向性が開けてきたのである。  これからフーコーが分析しようとするのは、性、絵画、政治のように、非言語的なディスクールが重要な位置を占める領域である。こうした領域の分析にあたっては、『言葉と物』のように、分析する時代を古典主義時代に限定する必要はなくなる。そして世界観として誤解されかねないエピステーメーとの関係性を特に重視する必要もなくなるのである。  たとえば性については、『言葉と物』の分析の枠組みであれば、性について実際に語られたエノンセと、語られなかったエノンセの差異を分析するだろう。しかしフーコーがここで考えている新しい方向性は、ディスクールを「実定的な」言語表現だけに限定せず、性や政治などのさまざまな現象も、非言語的な「ディスクール」として読もうとすることである。  人間の性的な行為について、さまざまなエノンセを現実に可能にする条件だけでなく、性のエノンセを生み出すさまざまな習俗、思想、宗教的な規範、性《セクシユアリテ》について告解するための教会の機構、告解を実際に聞く司祭など、非言語的なディスクールの総体として性的な行為を分析するのである(フーコーは後年、この言語的なディスクールと非言語的なディスクールの総体を〈装置〉という概念にまとめあげる)。  これは性に関する言語表現と非言語的な表現が、確立されたディスクール的な実践とどのように結びついているかを検討する。この分析は、科学的なディスクールのうちにではなく、禁止と価値のシステムのうちに宿るエノンセについての倫理学的な分析となる。  第二は、フーコーが長らく関心をもってきた絵画の分野である。考察される時代において、空間、距離、深さ、色彩、量感などが、非ディスクール的な実践においてどのように表現されるかを検討し、この非ディスクール的な実践が生み出した知が、理論、技術、画家の動作のなかにどのように表現されていたかを分析する。それは絵画をディスクール的な実践と非ディスクール的な実践の総体とみなして分析することである。  第三の分野は、政治的な知である。画家と同じように、ある時代の社会、集団、階級の政治的な行動は、一つの知によって貫かれているのではないか。それを一つのディスクール的な実践として記述できるのではないか。これは理論的な次元やエピステーメーの次元ではなく、政治的な表現行為の次元で、そこに示された人々の行動、決定、戦術などを分析するものである。これは政治的な実践を理論化するものでも、既存の理論を適用するものでもなく、言語表現と非言語表現としての実践(政治行動や戦術)が、いかにして新しい社会理論と、変革や革命の理論を生み出すかを明らかにするのである。  この『知の考古学』は、フーコーの思想の大きな転回点に位置する書物である。これまでの『狂気の歴史』から『言葉と物』にいたる歩みでは、基本的に人間科学の誕生の秘密をあばくことに専念してきたが、これからのフーコーは異なった方向に進み始める。フーコーがこの時期から関心をもつのは、エノンセの総体としてのディスクールと、非言語的なディスクールの総体である。フーコーは、実際に言語で表現されたものよりも、語られなかったものの存在論的な意味を問おうとする。  これには二つの方向が考えられる。一つは排除されたエノンセを、許容されたエノンセとの関係で分析すること。これはそのエノンセが排除された理由を問うことである。もう一つは、言語に表現されなかった非言語的なディスクールを、言語的なディスクールとの関係で分析すること。身体的な表現や芸術的な表現を、言語的な表現と対等のものとして分析するのである。  最初の方向は、『知への意志』において、性のディスクールの「抑圧仮説」を分析するという視点につながり、第二の方向は、監獄という制度を、法哲学、精神医学、犯罪学的なディスクールと、身体のありかたの総体として捉え直すという視座を生み出す。そしてフーコーは一九六八年の政治的な体験の中で、こうした新しい視座の重要性をみずから確認してゆくのである。 [#改ページ]   【第4章】[#「【第4章】」はゴシック体]   真理への意志[#「真理への意志」はゴシック体]   ………………………   『監視と処罰』 [#改ページ] †フーコーと一九六八年五月[#「†フーコーと一九六八年五月」はゴシック体]  一九六八年五月、それは構造主義とポストモダンの運動に大きな影響を及ぼした事件であった。今から振り返ってみると、学生の異議申し立ての運動が、哲学と教育の方法そのものを変革するようなインパクトを与えるという異例な事件だった。この時期に、ほぼ同時に世界の各地で学生の異議申し立て運動が勃発したことは興味深い。フランスの「五月革命」も日本の全共闘運動も、身近な問題をきっかけに、自己と社会の変革を求める運動に転化していった。  この運動に参加した者にとっては、これは学生運動というよりも、社会と自己のありかたを問い詰める思想的な事件として経験された。この運動に加わった多くの学生が、自分のありかたを変えずに、そのまま学生生活を続けることに深刻な疑問をもったのである。こうした経験をした者にとっては、思想は抽象的な知の体系ではなく、現実の生き方を問う倫理的な営みとしての意味をもつものだった。  フーコーは後年のあるインタビューで(17)、一九六八年五月の運動がなかったら、自分は監獄、犯罪者、性についての研究をしていなかっただろうと追想しているが、フーコーにとってこの運動は特別に重要な意味をもっていた。フーコーはある意味では、「一九六八年五月の思想家」なのである。  しかしフーコーにとっての「一九六八年五月」の意味は、学生の異議申し立ての運動とは異なる要素を含んでいた。この時フーコーはパリにいない。チュニジアの首都チュニスの大学で教えていたのである。このチュニスでフーコーは、一九六八年五月に相当するような「とても重要な経験」をする。  教師としてチュニジアに滞在していたフーコーは、そこで反政府活動に参加して厳しい弾圧を受けていた若者たちに陰ながら援助を与えていた。この運動に立ち会ったフーコーが感銘を受けたのは、フランス本国ではもはや政治的に革新的な意味をもっていなかったマルクス主義が、チュニジアでは人々の運動の支えとなり、政治的な行動の信念となっていたことだった。  フーコーは後に、政治活動に参加したのはこれが初めてだったと語っているが、この体験でフーコーが実感したのは、現実の生活における思想の生きた力とでも言うべきものだっただろう。フーコーは、当時のフランスではマルクス主義がアカデミズムに堕していたことを指摘しながら、次のように述懐している。 [#ここから2字下げ] これとは対照的にチュニジアでは、だれもが印象的なほどの輝きと、激しさと急進的な強さをもって、マルクス主義を主張していました。若者たちにとっては、マルクス主義は、たんに現実を分析するための良き手段ではなく、同時に一種の道徳的なエネルギー、驚くほどの実存的な行為だったのです。……わたしにとってのチュニジア(体験)の意味は、政治的な討論に加わることを迫られたということです。それはフランスの一九六八年五月ではなく、第三世界の国での一九六八年三月のことでした(18)。 [#ここで字下げ終わり]  フーコーは『言葉と物』において、マルクス主義は一九世紀の水の中でしか生きられない魚のようなものであると語っていたが、この生命力を失ったはずの思想が、なぜこれほど人々の行動のバネになるのか、フーコーはそのことに改めて驚く。フーコーは『知の考古学』ですでに予告していた政治的な行為の考古学的な分析を、自分の体験として、身をもって実行するのである。  これは、それまでのフーコーの思想史の分析に新たな視点を導入するような意味をもつ体験だったはずである。真理としてのマルクス主義はその生命を失っていても、その思想を真理として信じ、真理として生きている人々においては、生命力を失った思想も別の生命を受け取るようになる。実際に一つの思想を真理と信じて行動する人々の〈真理への意志〉は、一つの思想の真理としての価値、一つのエピステーメーにおいて一つの思想がもつ価値とは、異なる次元で考察すべきではないか。  ある思想が一つのエピステーメーにおいて確保していた位置ではなく、だれがその思想を真理と信じて行動するかの方が重要な意味をもつ——これは、真理としての思想の価値を、思想の歴史における位置によってではなく、その思想を信じる人々の意志と確信という視点から考察しようとする見方である。真理とは、誰がそれを真理として信じるかによって、大きく意味を変えるものであり、思想を真理として信じる主体の分析なしには、真理そのものという概念を分析しても、意味がないことになる。これは実は、フーコーが長い間親しんできたニーチェの〈系譜学〉という方法論の観点であった。 †ニーチェの系譜学[#「†ニーチェの系譜学」はゴシック体]  この時期にフーコーは「ニーチェ・系譜学・歴史」という論文を書き、ニーチェの系譜学という概念を作り替えた。これからのフーコーは、考古学とともに系譜学という新しい方法を駆使するようになる。そしてこのニーチェ論で取り出された系譜学の概念と真理の理論は、『知の考古学』と同じ戦略的な目標を追求するものであった。  まず系譜学は、歴史の連続性という人間学的な視点を批判し、起源と本質の探求を否定する。系譜という言葉は、起源に溯る行為を思い浮かばせるが、系譜学は起源への問いではない。起源を問うこととは、物の本質や純粋な可能性を模索することであり、哲学とは「……とはなにか」を問うことであると考えたソクラテス以来の形而上学の方法を採用することである。  系譜学は逆にこうした〈本質〉がどのような歴史的な経緯によって真理として形成されたかを分析する方法である。真理という概念は、この歴史性を隠蔽して、なにものかの「本質」であるかのように振る舞うものである。  ニーチェの真理の理論は、真理の概念におけるこの欺瞞性を暴く。系譜学は、真理を絶対的なものとして考えるのではなく、さまざまな力の競合と対立関係の中で成立する〈暴力の帰結〉と考える。ニーチェは真理とは、階級対立の結末であり、人間が他の人間を支配すると、そこに価値体系が形成され、真理という観念が生まれてくると考える。  系譜学は価値体系の背後にある暴力的な対立に注目することによって、真理が中性的で無害なものではなく、さまざまな力が抗争する力動的な場と考えるものである。ニーチェが明らかにしたのは、真理とは戦いの武器であるということだった。一つの階級が他の階級を支配するために利用する武器であり、支配されている階級が支配を覆すために利用する武器でもある。「真理」とは論駁されないという特徴をもつ誤謬にすぎず、歴史的な価値をもつものにすぎない。系譜学は、こうした伝統的な真理という概念を解体しようとするのである。  同時に系譜学は、真理は歴史的な遺産として、われわれの身体に刻み込まれていることを明らかにする。身体とはさまざまな事件が刻み込まれる平面であり、歴史が刻み込まれる場であるだけに、真理という概念を無自覚に使用することには大きな危険性がともなうのである。  系譜学は、つねに歴史的な視点に固執することによって、この危険性を回避しようとする。ニーチェはメタ歴史的な視点を導入するすべての試みを批判し続けている。それらの試みは歴史自身の背後に、世界の終末の視線をなげかけることであり、歴史の外部に永遠の真理、魂の不死、つねに自己との同一性を維持する意識を想定することである。  系譜学はメタ歴史ではなく、〈実際の歴史〉を考察することによって、真理などの形而上学的な概念の歴史性を明らかにする。人間の高貴な感情、無私な感情も一つの歴史をもっていることを暴くのである。  そのために系譜学は、すべての真理をそれを語るものの視点から考えるという「パースペクティヴ主義」を採用する。これは、個々の主体から離れた真理というものはなく、真理はつねに一つの視点からみられなければならないことを示すものである。真理はつねに知の意志に貫かれているのである。 †真理への意志[#「†真理への意志」はゴシック体]  この真理の理論においてニーチェが傑出しているのは、「真理とはなにか」という〈本質〉を問う形而上学的な問い方を否定して、「真理を語る者は誰か」という政治学的な問い方に転換したことである。ニーチェは道徳の系譜を分析しながら、あることが〈善い〉とか〈悪い〉とかいう評価は、その価値判断を語る者を分析しなければ意味がないことを明確にした。ニーチェはこの道徳の系譜の分析を真理の議論にも適用し、あるものが真理であるかどうかは、それを真理として信じる者は誰かという観点から分析する必要があると説いたのである。この観点からみると、真理とは「それなしにはある種の生物が生存しえない誤謬」(『力への意志』)の一種にみえてくるのである。  このニーチェの観点は、真理というもの、知というものを人間の本性や本質と関連させたアリストテレスとは異なり、あくまでも人間の〈発見〉として取り扱うことにある。これは本能のような人間に固有の特性ではなく、「表面の効果であり、人間の本性のうちにあらかじめ素描されていたものではない(19)」。アリストテレスのように、知を人間の本能から演繹することはできないのである。知とは闘いによって勝ち取られた成果である。  フーコーがニーチェのこの理論から取り出したのは、カントが考えたような認識の一般理論というものは存在せず、社会における政治的な関係と力関係から出発しなければ、認識を考察することができないということである。すでに述べたように、これは考古学的なプロジェクトを転位させるような視座である。フーコーのエピステーメーや知の理論は、一つの社会のすべての認識を決定するような基本的な枠組みが存在することを前提としていたからである。  フーコーがこのニーチェの真理のパースペクティヴ主義を採用したことによって、一つの文化における知の枠組みをエピステーメーとして取り出すという『言葉と物』のプロジェクトは方向を転換する。『言葉と物』の理論的な構成では、一つの特定の歴史的な時代における一つの文化は、その基盤となる知の枠組みを所有しており、その枠組みにおいてさまざまなエノンセが〈真理〉となると想定していた。あるエノンセが真理であるかどうかは、そのエノンセの登場するディスクール的な編成の領域が、アプリオリに(歴史的なアプリオリとして)決定するものであった。  しかし『知の考古学』で予告された政治的な行為の分析を進める中で明らかになったことは、歴史的なアプリオリによって〈真理性〉が決定されないようなエノンセがあるということである。マルクス主義がすでに歴史的な〈真理〉としての価値を完全に失っている時代にあっても、まだこのマルクス主義を武器として利用する人々が存在するのであり、マルクス主義が時代遅れになったと考えたのでは、現実の社会においてマルクス主義のもつ思想的な力を分析することはできなくなる。  考古学は、科学的に正しい命題の「真理性」は、歴史的なアプリオリによって決定されるものであることを明らかにしたが、人々を動かす力としての〈真理〉は、考古学的な分析とは別の分析を必要とする。現実の社会におけるさまざまな場面と状況において、一つの体系とそのエノンセを〈真理〉として受けとめる人々の内的なメカニズムを解明しない限り、マルクス主義や宗教的な教義のもつ力を分析することができないからである。  フーコーはある講義で、哲学の定義として「真理の政治学」よりも優れた定義はみあたらないと語っているが(20)、フーコーがこの時期に〈真理への意志〉の問題を提起したことによって、考古学は系譜学へと深まる必要があったのである。 †真理と権力[#「†真理と権力」はゴシック体]  フーコーは歴史的なアプリオリとしての〈真理〉や、伝統的な形而上学における真理概念とはまったく異なる〈真理〉を現実の社会の力の場において分析するという課題に乗り出した。これは「真理など存在しない」という相対主義的な理論とは正反対の理論である。真理は人々がどうしても信じざるを得ないものとして存在し、〈真理への意志〉のもとで、多くの人々が自分の身体と生命を賭けるのである。真理は、たんに理論的な知の真偽としてではなく、現実の社会の権力的な関係において、戦略的な機能を発揮するものとして解明する必要がある。これとともにいくつかの重要な問題が浮かび上がってきた。  まず真理とは、歴史的なアプリオリの分析によって解明されるものとは異なる地盤に立つ戦略的な要素であることが明らかにされた。エピステーメーを解明することは、エノンセの真理性の歴史的な根拠を明らかにするものではあるが、現実の社会においてさまざまなエノンセが実際に果たしている役割は、認識論的な枠組みの分析によっては解明できないのである。人々のさまざまな幻想の根拠と機能を分析しない限り、現実の社会において一つのディスクールまたはエノンセがもつ力は、解明できない。  この問題をたとえばスターリニズムとの関係で考えてみよう。「時代遅れ」のマルクス主義がロシアにおいてマルクス/レーニン主義(スターリニズム)として信奉され、それが真理性を要求していたのは、まだ遠い昔のことではない。フーコーがフランス共産党に入党したは一九五〇年のことであり、五四年には脱党していたが、その後も共産党は強力な力を発揮し続けた。このイデオロギーのために、ロシアの社会は不可視の収容所列島と化して、多数の人々が抹殺された。カンボジアにおいては一握りのマルクス主義的な党派の幹部によって、数百万人の人々が殺戮された。これらの社会においては、マルクス主義が真理としての価値を失わなかったのであり、それはロシアやカンボジアの社会の後進性の問題として片付けることはできない。  一つの社会において、あるイデオロギーがいかにして真理として信奉され、それが人々を動かし、死にいたらしめるかは、その社会において真理の理論がどのような現実的な機能を果すかによって決定されるのである。この真理の理論は、社会における権力関係、人々の力関係に基づいて、戦略的に行使される。真理の理論を分析するには、歴史的な知とエピステーメーだけではなく、社会におけるさまざまな主体の間の権力関係を分析する必要があるのである。  ここで重要な意味をもつのは、こうしたディスクールを〈真理〉として信じる主体の問題である。フーコーは主体性の理論を一貫して批判してきたが、それは社会における主体の位置を無視できると考えたからではなく、主体性という人間主義的な観念の罠を避けようとしたためである。主体を人間の〈人格〉という抽象的な根拠から考える啓蒙主義や、行動し実践する主体性を要請するマルクス主義の前提する主体概念では、哲学的な真理の問題を分析することができないだけではなく、現実の社会におけるディスクールの力も分析できない。  さまざまな仮構的な主体概念を前提として分析するのではなく、その社会の中で、このようなディスクールを〈真理〉として信じる主体が、どのようにして形成されるかを分析しなければならないのである。この真理と権力と主体の問題が今後のフーコーの分析の中心的な軸となる。 †権力の概念[#「†権力の概念」はゴシック体]  フーコーが真理の問題を権力と主体との関係で中心的に分析したのが、一九七五年に発表された『監視と処罰——監獄の誕生』(邦訳は『監獄の誕生——監視と処罰』)である。ここで提示された権力の概念は、マルクス主義的な権力論を一挙に覆すような理論であった。フーコーは権力という概念を分析するにあたって、たんに政治的な力関係や権力装置を分析するのではなく、真理を信じる主体の間の関係、真理のディスクール、主体のエノンセのもつ力を分析するのである。  マルクス主義においては権力は、プロレタリアが獲得する権力と、ブルジョワが抑圧する権力の二つに絞られていた。国家が消滅するまでの人間の「前史」においては、いずれも国家権力として機能するものであり、ブルジョワはプロレタリアを国家の権力装置によって支配し、抑圧すると考えられていた。  マルクス主義者のアルチュセールのイデオロギーの理論は、イデオロギーを信じる主体がいかにして形成されるかという視点をそなえていた点で、マルクス主義の権力論としては例外的なものであった。しかしこのアルチュセールのイデオロギー論も、社会の主体は外部からイデオロギー(虚偽意識)によって統制されると考えるものであった。  これに対してフーコーの権力論は、権力を虚偽意識の観点からではなく、主体の内部から機能する力として分析するものである。フーコーはそれまでの権力論を批判する——これまで権力は「排除する」「抑圧する」「隠蔽する」「取り締まる」などの否定的な用語で考えられてきたが、権力は主体の内部から、現実的なものを生み出している力として理解する必要があるのではないか。  フーコーが権力を、このような外部からの強制や抑圧としてではなく、主体の内部から働く力として、複数の人間の間に成立する力の場として考えたことによって、権力の理論に新たな可能性が生まれた。  まず、権力の理論をマルクス主義的な階級の抑圧理論として捉えるのではなく、社会の内部で普遍的に働くものであると考えることによって、権力の行使に関する微細な分析が可能となった。階級対立論では、アルチュセールのようにブルジョワ階級あるいは国家による権力の行使を分析できても、学校や会社やさまざまな制度と組織の内部での権力の装置の微細な分析は、そもそも必要とも考えられなかっただろう。  権力が、これまでのように抑圧的なブルジョワ権力や、革命的なプロレタリア権力のようなイメージではなく、真理を語ると自称する者とその真理を信じる者、教師と生徒、上司と部下、男性と女性、父親や母親と子供といった日常生活のすみずみに張りめぐらされた人間の間の力関係の網の目として理解されるようになることによって、現実の生活の場での社会批判の視点が確保されるのである。  次に、権力を批判する知識人の役割が転換した。これまでの知識人の像は、マルクス主義者やサルトルに代表されるような「普遍的な知識人」であった。このタイプの知識人は、人間が世界で生きていくうえでの基本的な考え方(世界観)を提示することを自分の義務と考える。この知識人は「真理と正義の所有者」として発言するのであり、「普遍性を代表する人間」としてふるまう。  これに対してフーコーが提示した知識人の像は、「特定領域の知識人」として、自分の生活の場という具体性から発言する。ここでは知識人は普遍的な真理の場から語るのではなく、自分の利害関係のある問題について、自分の観点から、自分の専門の問題について語るのである。  最後に、フーコーがこのように権力を社会の内部で働くメカニズムであると捉えたことによって、現代の福祉社会の逆説の謎を解明する道が拓けた。第6章で詳しく紹介するように、生命と幸福を重視するはずの福祉社会は、同時に兵士と非戦闘員を大量に殺戮する逆説的な社会であった。生きることを原理とする福祉社会の〈生−権力〉の裏側には、戦争と死の原理が張りついているのである。 †フーコーの権力論の変貌[#「†フーコーの権力論の変貌」はゴシック体]  フーコーの権力の理論は、これからさまざまな変貌を示すが、一貫していることは、自己の思想を真理として提示するのではなく、読者が生きる上で役立てることのできるツールとして提供するという姿勢である。フーコーは、思想は社会の中で生きる人々に役立つツールでなければならないと考えていた。ある人が社会の中で生きがたく思う時に、思想はその人が直面する問題を解決する手段となり、社会を変えていくために役立つべきである。フーコーの権力の理論の重要な特徴は、自分たちの生活する現場で、他者との間に生じている権力関係を作り変えていかない限り、自分たちの社会と生活を変える方法はないことを教えていることである。  ここで駆け足で、これからのフーコーの権力論の道筋をたどってみよう。この章で取り上げる『監視と処罰——監獄の誕生』では、支配権力がいかに自己の支配にふさわしい主体を形成していくかを分析する。この書物では、人が外部から権力的に強制されるのではなく、身体と精神の内部から、いかにしてその社会に適合的な主体として形成されていくかが描き出される。  次の章で検討する『知への意志』では、主体が性《セクシユアリテ》という私秘的なテーマを軸に、いかに権力を行使する欲望を享受するようになるかを分析する。ここでは、性は禁圧されるものではない。人々は性について語りながら権力のゲームを楽しむのである。  さらにその章では、生活の快適さを最大の目的とする福祉社会という現代的な社会のありかたの背後に、いかにして戦争と死の原理が潜んでいるかが暴きだされる。フーコーはこれを〈生かす権力〉、またはバイオ・ポリティックスと呼ぶ。  6章と7章で取りあげる「統治性」のプロジェクトでは、生の権力の帰結がアウシュヴィッツにいたることを明らかにしながら、この権力を変容させていくための抵抗の原理を提起する。自己の権力的なあり方を自覚しながら、自己の生を作り変えていく〈実存の美学〉の原理が提示されるのである。  本章ではまず、『監視と処罰——監獄の誕生』を読みながら、フーコーの最初の権力の理論を具体的に検討してみよう。ここで提示された権力の理論は、精神と身体の関係についての二つの向き合ったベクトルで考えるとわかりやすい。  まず身体から精神に向かうベクトルは、身体を調教することによって、人間の精神を支配する可能性を確保する方式を分析する。これが〈従順な身体〉のテーマである。  逆に、精神から身体に向かうベクトルでは、精神を規制し、個人を道徳的な主体として形成することによって、その個人の身体をコントロールする方式を分析する。これが〈パノプティコン〉のテーマである。まず従順な身体のテーマから考えよう。 †従順な身体[#「†従順な身体」はゴシック体]  この『監視と処罰——監獄の誕生』は、人間の思考と認識における身体性の意味を浮き彫りにした画期的な書物である。人間は身体をもちながら認識し、思考するのではない。身体があることで初めて認識が可能になるのであり、人間の認識は身体によって条件づけられているのである。カント的に言えば、身体は人間の思考の〈超越論的な条件〉であり、逆に人間の思考の有限性の根拠でもある。  コギトを出発点とし、真理の根拠としていたデカルト以来の近代哲学は、この身体性の意味を捉え損なっていたため、さまざまな難問に巻き込まれてきた。この問題を認識論的に提示したのはフロイトであるが、近代の支配権力はそのことを早くから見抜いていた。身体を手掛かりとすることで人々を支配する装置が、近代の早い時期から確立されていたのである。  フーコーは古典主義時代の末期、一七世紀から一八世紀にかけて、人間の身体を対象とする権力の「ミクロな身体学」が誕生し、支配の対象としての人間の身体に対する「政治解剖学」が考案されたと考えている。この時期に、産業革命、伝染病の新たな流行、鉄砲の普及、フリードリヒ大王によるプロイセンの軍事改革と軍事的な覇権など、さまざまな要因をきっかけとして、新たな訓練と〈調教〉の体系が社会全体を覆い始めた。  兵士を例として考えてみよう。中世の伝統を引く軍隊では、兵士の身体は力と勇敢さの紋章の役割を果たしていた。兵士はすぐにそれとわかるような身体的な特徴をそなえ、行進の際には誇りをもって「優美さと重々しさ」を示すことが期待されていた。  しかし一八世紀後半になると、兵士は国民の身体を改造して形成されるものとなった。新たに徴募された兵士たちは、それまでの農民らしい物腰を捨てて、命令に従って展開するために適切な身体に改造されるのである。この時代に、「身体が権力の対象ならびに標的として、完全に発見された」。  この身体は、勇敢さの紋章ではなく、服従し、訓練される〈従順な身体〉である。学校で、兵舎で、病院で、工場で、身体を対象とする細かな規則が定められ、近代社会に適合した人間を作り上げるための微細な技術が開発された。たとえば日本でも、徴兵によって集めた農民に対しては、軍隊内務書において「起床後日夕点呼までは寝台に就《つ》くを許さざるのみならず、これに腰を掛くるを禁ず」から「連隊長の許可するときは室内に在て上衣を脱し、ホックを外し、靴を脱することを得」、そして「営内に於て私に鳥獣を飼ふべからず」にいたるまでの詳細な規律を定め、集団生活の仕方から教え込んだのである(21)。  フーコーはこの身体の規律の技術を三つの側面で分析している。まず空間の配置の技術では、学校、兵舎、工場などの閉鎖的な空間を設置し、この空間をそれぞれの活動や集団ごとに区切り、配分する。次に時間の配置の技術では、起床から就寝にいたるまでの時間を細かに割り振る。最後に身体の部品化の技術では、身体を部品のように分解し、再び組み立てることによって、道具や機械と一体化した身体=兵器、身体=道具、身体=機械という一種の複合体を作り上げる。  戦争とは異なる手段による政治の延長であると語ったのは『戦争論』のクラウゼヴィッツだが、フーコーは逆に政治が戦争の延長として理解されてきたことを指摘する。軍隊が市民社会の延長となるのではなく、市民社会における日常生活が、軍隊における身体の調教というモデルに従って展開されるのである。明治期の日本においても、工場で、兵舎で、学校で、同じような身体の規律と調教の技術が活用された。資本主義社会に適した身体は、こうした一連の技術と訓練を通じて作り上げられた作品である。 †主体の形成の技術——試験[#「†主体の形成の技術——試験」はゴシック体]  しかし身体の調教は、精神の調教にいたらなければ効果を発揮しない。社会の中で兵士を育成しても、それは命令に従って動く機械的な人間を作り出すだけだからである。ここで必要とされるのは、身体から精神に働きかけると同時に、精神から身体に働きかけるメカニズムである。社会にとって重要なのは、社会の意図に沿って自発的に行動してくれる人間である。近代の社会では、そのような主体を形成するために、多様な手段が駆使されてきた。  第一にあげられるのが〈試験〉である。個人を、社会の期待するような主体として構築するためには、身体と知の両面での相互的な働きかけが必要となる。知として学んだものを身体に教え込み、身体の次元で学んだものが知として普遍化される必要がある。そのための一つの手段が試験であり、これは近代の特権的な〈真理の保証〉である。試験を受ける個人は、試験によって資格を付与され、等級を定められ、資格の否定という強制手段によって、処罰される。試験という「些細な技術」においては、「権力の儀式と実験の形式が、力の誇示と真理の確立が」集中しているのである。  ここに学校は「中断のない一種の試験装置」となった。学校では学生や生徒は試験によって評価され、学ぶことを奨励され、そして次の試験装置に入るための資格を付与される。教師は、自分の教えたことに基づいて学生を試験することで、自分の知識を〈真理〉として学生に強制するのであり、教師の教えを尊重しない学生は、試験において厳しい評価を受けることになる。同時に教師の教えを習得した学生は、他の学生に対してそれを〈真理〉として主張することが許される。あるいは将来は自分の知識を他の人々に強制する特権を得るために、教師となる道を選ぶかもしれない。  試験と評価に合格したものは、〈真理〉に近づくと自ら感じるようになるのであり、他の人々に対して自分の〈真理〉への近さを誇り、他者に対する力の威力を味わうことができるのである。真理と権力が収斂するこの構造は、近代の知と試験という制度の免れがたい副産物である。試験のために学び、試験のためにそなえる学生の生活と知の全体が、この構造に規定されてしまいかねないのである。 †パノプティコン[#「†パノプティコン」はゴシック体]  この試験の原理を建築的に示したのが、イギリスの法学者で、功利主義の哲学者であったベンサムである。ベンサムは監獄だけでなく、学校や工場にも応用できるモデルとして、パノプティコン(一望監視装置)という装置を考察した。これは、円環状に配置した建物の中心に監視塔を建て、この監視塔から周囲の建物のすべての部屋が監視できるようにした装置である。  重要なのは、この装置では、中央の監視塔に監視者が常駐している必要がないことである。監視される可能性があることで、監視される者の心の内側に、第二の監視者が生まれる。この監視されるものの内部の監視者という構造は、道徳的な主体が、自己の欲望する主体を監視するというカントの『人倫の形而上学』の法の原理と同一の構造を備えている。これは「権力を自動的なものとし、没個人化する」装置である。 [#ここから2字下げ] その権力の原理は、一つの人格のうちにあるのではない。身体、表面、光、まなざしなどの慎重な配置のうちにある。この内的なメカニズムをそなえた仕掛けに、個人が捉えられるのである。……パノプティコンとは、絶妙な機械仕掛けであり、ごく多様な欲望をもとにして、権力の均質な効果が作り出されるのである。(『監視と処罰——監獄の誕生』第三部第三章) [#ここで字下げ終わり]  パノプティコンは、身体を手掛かりにしながら、個人のさまざまな欲望を絡めとり、道徳的な主体、服従する主体としての個人を形成する。さらにこの規律装置はたんに監視だけを目的とする装置ではなく、規律社会の中心的な機能である試験を行う場でもある。人間がある条件のもとで何を学びうるかを試すためには、このパノプティコンが最適だった。  この「残酷さと学識に満ちた檻」は、規律社会においてさまざまな用途に役立てることができる。監獄において囚人の素行を改めさせるために、精神病院において狂人を見張るために、病院において患者を看護するために、学校において生徒を教育するために、工場において労働者を監視するために。  フーコーが指摘しているように、この装置は近代の資本主義社会の基本的なモデルとなった。この装置は、支配の対象となる者の身体の表面に注がれるまなざし(の可能性)によって、被支配者の精神と身体を拘束すること、そしてその道徳性を向上させ、生産性を改善することを目的とする。これが、近代の新しい「政治解剖学」の基本原理である。  このパノプティコンの世界は、歴史的にはブルジョワジーが政治的な支配権力を掌握した時代において、自由と啓蒙の理性の裏側を形成するものであり、輝かしき啓蒙の理念の「闇の面」であった。ヘーゲルが『法の哲学』で展開したように、法の基盤となる契約は、相互に承認しあう二人の人格同士の関係を基礎とするものであったが、フーコーはその理念の土台を発掘するのである。  フーコーが指摘したことは、この人格同士の相互承認という理念は、社会の中で生きる個人の身体に対する調教を基礎としているということであり、「自由を発見した啓蒙時代は、調教も考案した」ということである。〈自由な社会〉が形成されるのは、自由な個人によってではなく、身体を調教され、精神を監視する大きな〈眼〉を魂の内部に埋め込まれた主体である、という逆説のもつ意味は大きい。 †魂から身体へ[#「†魂から身体へ」はゴシック体]  このように、近代に登場した監獄、工場、兵舎、病院などの新しい施設で採用されていた戦略は、従順な身体を形成するとともに、個人の身体に注ぐ〈眼〉によって、道徳的な主体を形成させるものだったと考えることができる。この主体は、他者の眼を内面化することによって、自分が自由な主体であると信じるようになる。この身体と精神の双方に働きかける戦略は、魂という「柔らかい脳繊維」の上に「強固な帝国」を築くことによって、身体の叛乱を未然に防止することを目的とする身体の「政治解剖学」として結実する。  プラトンは、身体が魂の牢獄であると考え、哲学とは魂をそこから解放するための「死の稽古」であると語っていた。フーコーはこのプラトンのテーゼを完全に逆転させる。身体が魂の牢獄なのではなく、魂が身体の牢獄なのである。  身体を契機として個人に道徳的な主体を形成させ、その主体性によって身体を拘束するという近代の〈規律権力〉においては、司法そのものよりも精神医学、精神分析、心理学などの人間科学が、人間の服従=主体の形成において重要な役割を果たすことになる。  この監獄という監禁施設を中心にして、近代の社会は〈監禁都市〉を形成する。通常の都市とは異なり、この都市の中心にあるのは都市の権力中枢ではない。この都市を構成するのは、国王の身体とそこから発生する権力というモデルではなく、障壁、空間、制度、規則、言語表現など、さまざまな構成要素からなる多様なネットワークである。  そしてこのネットワークの中心に監獄が位置する。それはこれが監禁を行う装置であるという意味よりも、工場、病院、学校、兵舎、監禁施設などから構成される現代の〈監獄列島〉において、監獄がモデルとしての役割を果たしているからである。  こうした社会では、「監獄が工場や兵舎や病院に似通い、こうしたすべてが監獄に似通っても、なんら不思議ではない」のである。 [#改ページ]   【第5章】[#「【第5章】」はゴシック体]   生を与える権力[#「生を与える権力」はゴシック体]   …………………………   『知への意志』 [#改ページ] †権力モデルの転換[#「†権力モデルの転換」はゴシック体]  監獄をモデルとして、社会の内部ではたらく権力関係を分析した『監視と処罰——監獄の誕生』は、権力論において重要な一歩を画した書物であった。この書物でフーコーは、権力が外部から抑圧する権力だけではなく、人々を内側から動かし、人々の主体そのものを作り上げていく機能を果たすことを指摘した。しかしこの分析は、人々の間に網の目のように存在する力関係の場そのものを取り上げるよりも、支配しやすいような〈従順な身体〉をもち、道徳的な主体として行動する市民を形成する〈パノプティコン〉という観点から権力を分析するものだった。  この従順な身体とパノプティコンは、近代社会の一つの特徴である〈規律権力〉を分析するためには最適なモデルだった。近代社会は、契約と法のモデルで理解できる要素をそなえているからである。このモデルに準拠すると、この抑圧する権力にいかに抵抗するかという文脈で問題が提起されるようになる。  しかし一九世紀半ば頃から、社会と国家において契約と法のモデルでは理解しにくい要素が生まれてくる。社会はもはや契約関係に基づいて設立されたものというよりも、一つの身体をもったものとして理解されるようになってきたのである。社会のモデルが、法のモデルから生ける身体という有機体的なモデルに転換したことによって、近代の社会は、外部に支配者をもつ社会である以前に、自分の身体をもち、病に悩むような一つの有機的な存在とみなされるようになる。  こうした有機体としての身体をもつ社会は、規律権力とは異なるタイプの権力で支配されていると考えることができる。フーコーはこの権力を〈生−権力 bio-pouvoir〉と呼ぶ。フランス革命以前のアンシャン・レジームにおいては、王は「死を与える権力」であった。しかし革命によって王を殺戮し、独立した有機体のような感受性をもちはじめたフランス革命以降の市民社会の権力は、「生を与える権力」となる。  社会が、生物体のように存続することを自己目的とするようになると、社会の構成員に死を与えることよりも、社会の構成員をよりよく〈生かす〉ことが重要な課題となる。社会はその構成要素を失うことによって、自らの生命の一部を喪失するからである。  フーコーはこの権力モデルの転換について、社会の権力のありかたが規律権力から生−権力に移行したというより、生−権力が規律権力の後から誕生して、これと重層的に重なったと考えている。この生−権力というモデルによって、フーコーの権力論はさらに深められることになった。  この社会においては、従順な身体とパノプティコンだけでは、その成員を制御することはできない。社会の成員を規律や道徳性という通路からではなく、性《セクシユアリテ》という私秘的な通路から管理することが必要とされてきたのである。こうした社会における権力を分析するには、他者による規律と調教という観点よりも、性の問題を手がかりとした自己の支配という観点の方が、重要な役割を果たす。 †性《セクシユアリテ》の問題化[#「†性《セクシユアリテ》の問題化」はゴシック体]  フーコーは『性《セクシユアリテ》の歴史』シリーズの第一巻『知への意志』において、性的な人間について二つの側面から考察を始めている。一つは性的な挙動をてがかりに社会から監視される人間という側面であり、もう一つは、男性と女性というジェンダーを通路として、社会における自己のアイデンティティを模索する人間という側面である。  社会において性《セクシユアリテ》が〈問題〉となったのは、それほど古いことではない。『知への意志』の第一章は、「われらヴィクトリア朝の人間」という(今となっては)有名なタイトルをもつ章であるが、この章でフーコーは、ヴィクトリア朝に代表される近代のブルジョワ社会においては、性の問題は禁圧され、性に関する表現は抑圧されてきたという通念に挑戦する。この時代は、そしてわれわれの時代は、性について語ることを禁圧するようにみえながら、じつは性についてもっとも関心をもち、もっとも饒舌に語り続けている時代ではないのか。  フーコーはこの性の抑圧仮説に対して、次の三つの重要な疑問を提起している——性の抑圧の仮説は歴史的にみて正しいだろうか。われわれの社会において機能している権力のメカニズムは抑圧的なものだろうか。抑圧を批判する言論は、真の意味で反権力的な性格のものだろうか。  フーコーは抑圧仮説に対して、性が抑圧されていなかったという逆の仮説を立てようとしているのではない。権力と真理のメカニズムの中で、性についての表現がどのような機能を果たしているかを明らかにしようとしているのである。そのために問われるべき問いは、次のようなものである。  ——権力はどのような言語表現に沿って、個人のもっとも私秘的な行動の水脈にまで忍び込んでくるのか。  ——権力はどのような方法によって、異例な形態の欲望、あるいはほとんど知覚されないまでの欲望を捉えることができるのか。  ——権力はどのようにして日常の快楽に浸透し、それを統制しているのか。  フーコーはこれらの問いに依拠しながら、社会における人々の欲望と権力のゲームを分析しようとする。『監視と処罰——監獄の誕生』で示されたことだが、権力は外部から抑圧するものとして訪れるのではない。人々が社会の中で、他の人々と関係をもちながら、自己の欲望を追求するなかで発生する〈場〉のようなものなのである。フーコーは『知への意志』では、性の問題を手がかりにこの欲望の問題を分析しようとする。人々は性を抑圧するかのようにふるまいながら、自己の欲望の秘密をどのように解読しようとしていったのだろうか。そして自己のアイデンティティを自分の性的な欲望とみなすほどに性に魅惑され、性の問題に過敏になっていったのはなぜだろうか。 †告白する動物[#「†告白する動物」はゴシック体]  この性《セクシユアリテ》への過度の敏感さは、告白という形で表現された。フーコーは、西洋の人間は「告白する動物」であると語っているが、キリスト教の教会における告解の延長に、自己の性を告白することを義務とする感受性が接ぎ木されたのである。  一六世紀以降の西洋のキリスト教の告解では性が重要な告白事項になった。信徒は、自分の肉体の欲望についてどのように考え、どのように感じたかを、司祭に事細かに告白することが求められるようになった。これまでは修道院の中だけで求められていた性欲の告白が、一七世紀には西洋の全体の社会において、大規模な性の言語表現の企てとして登場した。 [#ここから2字下げ] おそらくこのとき初めて、近代西洋世界にかくも特殊なあの要請が、一つの全体的な桎梏という形で確立したのである。わたしが問題にしたいのは、…快楽の作用と関係のありそうなすべてのことを言うこと、魂と肉体を介して、性となんらかの関係をもつ無数の感覚と想念を言うこと、自分自身に対し、他者に対し、しかもできるだけ頻繁にそれを言うという、ほとんど際限のないつとめである。(『知への意志』第二章) [#ここで字下げ終わり]  ここに、すべての個人が、自分の性的な欲望について調べあげ、自分の欲望に異常な点はないかと、心の隠微な欲望までも洗い出し、肉親や友人の間で互いに監視しあうシステムが形成される。そしていつか性倒錯や子供の自慰は、こうしたシステムがみずから作り出すものとなってしまう。調べるものと調べられるものの隠微な快楽。「快楽は、自分を狩り出してきた権力の上に拡がる。権力はいま狩り出してきたばかりの快楽をつなぎとめる。医学的な検査、精神医学的な調査、教育学的な報告、家庭内の管理が、…快楽と権力という二重の衝動をもつメカニズムとして機能している。問い質し、監視し、様子をうかがい、探りだし、ほじくり返し、まさぐり、明るみに出す、そういう働きをする一つの権力を行使する快楽である」。  これは、逃げてしまってはゲームにならない鬼ごっこのようなものである。親と子供、教師と生徒、医師と病人、精神分析者とヒステリー患者は、このゲームを演じ続ける。「われわれの社会の特徴である近親相姦的な小家族、われわれが成長し、生活している性的に飽和した家族の小空間(22)」がここに形成される。  この観点からみると、フロイトの読み解いたエディプス・コンプレックスとは、近親相姦の欲望という神話によって、個人の多様な欲望を家族の小空間に送り返す役割を果たしたのである。個人は自分の反家族的な欲望を追求しながら、いつか家族の幻想のもとに回帰することになる。ドゥルーズが指摘したように、エディプス・コンプレックスとは、個人の欲望を〈パパ/ママ/ぼく〉の三角形に閉じ込めようとするものである。  フーコーがここで描く学校や病院や監獄の制度は、もはやみえざる眼に監視されたパノプティコンの制度ではない。互いに秘された欲望によって結びつけられ、「権力と快楽のゲーム」を楽しむ人々が棲息している空間、みずから権力を行使し、権力を行使される権力と欲望の主体がゲームを繰り広げる空間である。 †性《セクシユアリテ》の科学[#「†性《セクシユアリテ》の科学」はゴシック体]  このように、社会における性《セクシユアリテ》に対する感受性が鋭敏になり、性に関する言語表現が増殖するとともに、性の科学が成長してきた。これはまず性倒錯に関する理論として登場する。しかしこの科学は、非常に困難な立場に立たされていた。最初から矛盾した課題を背負わされていたからである。  まず性の科学は、科学としての立場を主張するために、心理学と生理学に依拠する必要があった。しかし性倒錯についての異常心理学という学問の科学的な地位が疑わしいものであることは、フーコーが『狂気の歴史』以来明らかにしてきたことである。人間科学という学問が、〈人間〉というイデオロギーに依拠した学問であり、その根本の場所において、科学性を否定する要素を孕む学問であった。  この学問の背景にあるのは、正常性という規範に反する人間を排除しようとする意志である。性倒錯に関する理論は、異常者を排除するために近代社会が考案した学問の一つであり、「本質的には道徳律に従属した学問であり、道徳律の分割思考を、医学的な規範という形でむし返していた」。 『狂気の歴史』のテーマがここでよみがえる。『狂気の歴史』が明らかにしたことは、狂気というカテゴリーが、道徳的な本質をもつものであることであった。すなわち狂気とは精神疾患ではなく、社会が排除し、監督し、調査することを決定するための基準だった。ここでは〈異常性〉という基準が〈規範性〉という基準と対をなして、社会の規範に反しているものを選別し、調査し、検閲し、監視するための基準となる。  性の科学が、「科学」であることを自称するためには、性を真理に結びつける必要があった。そのための手続きとして二つの方法が考えられた。フーコーはこれを西洋における性科学と東洋における性愛の術として対比する。後年フーコーが述懐しているように、この区別は東洋と西洋という安易な対比のもとに、事態にそぐわない区別を導入するものであったが、フーコーの目指しているものは明らかであろう。性科学において真理が権力的なものとして登場していることが許しがたく思われたのである。  フーコーが考えた東洋の性愛の術では、人が実践として知り、経験として取り集めた快楽から真理が取り出されるのであり、これは秘された知として伝承される。これに対して西洋の性科学では、性に関する真理が秘伝としてではなく、「知である権力」として、告白という儀式を通じて行われる。人は、肉親に、医師に、教師に、愛する者たちに告白する——自分の犯した罪、自分の考えと欲望、過去と夢、幼児期の記憶、病と悲惨を。  自分が最も大事だと思うこと、貴重な記憶、病と欲望を告白することは、自己についての〈真理〉を他者に告げることであり、フーコーはこの行為において、その人間のアイデンティティが形成されると考えている。アイデンティティとは抽象的に形成されるものでも、自己のもっとも内奥の場所で密やかに形作られるものでもない。自己のアイデンティティとは、他者との関係において初めて形成されるのである。 †性《セクシユアリテ》のテクノロジー[#「†性《セクシユアリテ》のテクノロジー」はゴシック体]  フーコーはこの自己のもっとも私秘的なものを告白するという濃密な空間において、一八世紀末にまったく新しい「性《セクシユアリテ》のテクノロジー」が誕生したと考えている。性の問題が、教育と医学と経済を仲介にして、国家の問題となった。「社会集団全体とそれを構成する個人の一人一人が、自分を監視することを要求されるという事件」が発生したのである。  この性のテクノロジーは、現実の社会においてはどのような機能を果たすのだろうか。フーコーはこの問題を、女性の身体のヒステリー化、子供の性の教育化、生殖行為の社会的な管理、性倒錯に対する医学的な関与という四つの領域で検討している。  女性の身体のヒステリー化と生殖行為の社会的な管理の問題は、まとめて考えた方がわかりやすい。これはいずれも出産を軸としたテーマだからである。ここではフランスを例にとって考えよう。たとえば一八七〇年の普仏戦争の直後から、プロイセンとの戦争に負けたのは出生率の低下と男性らしさの欠如が原因であるというキャンペーンが展開された(23)。一八〇〇年には三・二九パーセントだった出生率は、一九一〇年の時点では一・九パーセントまで低下していた(24)。この傾向に困惑した人口統計学者たちは、出生という私秘的な行為を「出生率」という公共の問題に転換しようとしたのである。  フーコーは、近代の社会ではこの出生という問題をきっかけとして、女性の身体が非常に重要な意味をおびはじめたことを指摘している。女性の身体は、社会によき市民を供給する器として、夫や子供たちのための生活の場を維持する主婦として、子供たちを養育する母親として、三つの次元で戦略的な目標とされた。  この生殖と出生率に関する懸念は、子供の性の教育化という形でも表現された。森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』は、日本の学校の寮という場での青年の性の問題を描いた小説であるが、当時のヨーロッパでも子供の教育は寄宿舎で行われるのが通例だった。このために子供の性に関してもっとも重要な問題とされたのは、この寄宿舎における自慰と同性愛だった。この寄宿舎で蔓延すると考えられた性的な倒錯(自慰と同性愛のことである)を恐れて、多くの貴族は家庭教師を雇って、自宅で教育を行おうとした。  さらにやむをえず寄宿舎に子供を送り出す両親のために、ドイツではバセドゥが汎愛学寮(フィラントロピスム)を開設した。この施設の目的は、子供たちの性的な活動を監視しながら、性教育を実施し、子供たちの「身体の矯正」を行うことにあった。カントはこの施設の開設式に招かれ、その「自由」の理念を賞賛しているが(「汎愛学寮に関する論文」)、「教育学」の論文では、次のように少年の自慰行為を戒めていた。 [#ここから2字下げ] 自己自身に向けられるたぐいの情欲ほど、人間の精神と身体を衰弱させるものはない。これは人間の本性にまったく反するものである。われわれはこれを黙認してはならない。これがいかに忌まわしいものであるかを教え、これによってその少年が種の繁殖の役に立たなくなること、体力がほとんど失われてしまうこと、精神が大いに損なわれることなどを教えなければならない。 [#ここで字下げ終わり]  フーコーが語るように、当時の「教育者と医師は、少年の自慰を根絶すべき疫病として、撲滅しようとした」。この子供たちの「ひそかな快楽」を手がかりにして、性がおそるべきものであり、警戒しないと種も精神も滅ぼしてしまう危険なものであることを、子供たちに教え込むことが目指された。  ヘルダーリンの伝記によると、家庭教師になったヘルダーリンは、教え子の「性的悪習」を防ごうと、「子供を一瞬間もほとんどわきから離さず、昼も夜も不安にはりつめて見張りをした」という。「熱心のあまり鞭を用いることもあった(25)」ほどであり、ヘルダーリンはついに神経衰弱になって職を離れる。時代の病のような子供の自慰に対する警戒心の被害者は、子供だけではなかったのである。  最後に性倒錯の医学的な関与について、フーコーは興味深い逸話を紹介している——フランス最初の性犯罪の記録である。一八六七年にラプクール村の農業労働者が、村の少女に「ちょっと愛撫」してもらった。これはそれまでは村で日常的にみられたことだったという。しかし少女の両親は、これを村長に告発した。フーコーは、これが日常的な些事としてではなく、「性犯罪」として受け取られるようになったことに注目する。この男は逮捕され、精密な医学的な検査を受ける。結局は無罪になるが、病院に閉じ込められ、精密な検査を受けながら一生をおくることになる。  病院では、この男の頭蓋骨の大きさを測定し、骨格と解剖学的な特徴を調べ、性的な変質者としての素質をみいだそうとした。そしてこの男に、ものの考え方や趣味、習慣、感覚、判断などを問い質した。わずかな性的な逸脱が、医学的な正常性の規範に基づいて〈異常〉と判断され、性倒錯者として分類されたのである。 「性倒錯大全」とでも呼ぶべきクラフト・エービングの『性的精神病質』が出版されたのは一八八六年のことであるが、この時期にさまざまな性倒錯の概念が確立された——露出狂、フェティシズム、動物愛好症、サディズム、マゾヒズム、性欲亢進症、性欲欠乏症など。そして性的な逸脱と〈種〉の問題についての社会の感受性が過敏になるとともに、「早く性に目覚めすぎた子供たち、早熟な少女、あやしげな学生、いかがわしい召使と教師たち、残忍だったり偏執狂的だったりする夫、孤独な収集家、奇怪な衝動をいだく散策者」などが病院や法廷に出没するようになる。 †性《セクシユアリテ》の装置[#「†性《セクシユアリテ》の装置」はゴシック体]  重要なのは、これらの人々が異常者として社会から排除されたかどうかではない。彼らは自己の欲望の「異常」さにみずから懸念を抱き、医者を訪れることが多かったということである。権力機構によって排除される以前に、自己の欲望に疑念を抱いた人々が、そのことを自己のもっとも内奥の秘密としながら、それを他者に語らざるを得ないような仕組みになっていることである。これは近代の社会において、性《セクシユアリテ》において自己の真理とアイデンティティを見いださざるを得ないような〈からくり〉が出来上がっていることを示すものである。  この〈からくり〉をフーコーは「性の装置」と呼ぶ。この〈装置〉は実体的な機構ではない。これはさまざまな要素で形成されたネットワークのようなものとして理解する必要がある。〈装置〉とはたんに制度的なものだけで構成されるものではなく、法律、道徳的な主張、哲学的な命題、科学的な法則、医者の診断など、非常に異質なもので構成されるのである(26)。これは『知の考古学』において、ディスクール的な実践と非ディスクール的な実践の総体と呼ばれていたものをまとめた概念と考えるとわかりやすいだろう。  たとえば監獄を〈装置〉として考えよう。たんに刑務所という建物が存在することが重要なのではなく、監獄が社会において機能できるようにしている全体の仕組みが問題なのである。たとえば、法を犯したとされる人間をこの施設に収監するための根拠を示す法律、その運用を決定する判事、検事、弁護士の日常的な実践、法哲学に示されるような刑罰の哲学的な根拠と道徳律、それらが互いに入り組んだ相互作用を及ぼしながら、日々変化を続けていく不可視のネットワークが存在するはずである。それらを全体として〈装置〉と考えるのである。  さらにフーコーが指摘しているように(27)、監獄とはたんに違法者を監禁する施設であるだけでなく、逆に違法行為を幇助する犯罪者の社会を形成する効果を生み出した施設でもある。そしてこの装置は、植民地での人種差別主義的な抑圧の道具として、労働運動の暴力的な弾圧のための政治的な手段として、さらに売春の組織化などの経済的な目的のための手段として、利用されるのである。 †性《セクシユアリテ》と優生学[#「†性《セクシユアリテ》と優生学」はゴシック体]  フーコーがこの『知への意志』で繰り返し強調しているように、性《セクシユアリテ》という〈装置〉は、近代社会において人々を家庭という小さな装置に縛りつけるうえで重要な役割を果たしてきた。しかし性の問題は、たんにエディプス・コンプレックスという近親相姦のタブーによって人々を「ファミリー・ロマンス」(フロイト)の空間に閉じ込めただけではない。これは人種差別によって、人々を殺戮する原理となったのである。  すでに子供の自慰のテーマで明らかになったように、性の問題は優良な〈種〉の保存という観点から特に重視されていた。倒錯した性を排除するのは、それが社会に危険であるためでもあるが、同時にそれは純粋な血と種族を守るという要請に従うためでもある。  性はそれ自体の病気に冒されるだけではなく、それを十分に管理しておかないと、病気を伝えたり、未来の世代に病気を作り出す危険性があると考えられるようになった。社会が有機体のモデルで理解されはじめた時代にあって、「性はこのようなものとして、種の病理学的な資本の根本に立ち現れてきた。……性倒錯の医学と優生学のプログラムは、性のテクノロジーの内部で、一九世紀後半の二つの大きな革新だったのである」。  この性の装置と性のテクノロジーの特徴は、それが他者の快楽を制限する原理として登場したのではないことにある。これはいわば「生を最大限にするための新しい技術」として受け取られた。自分と家族の生活を大事にするための技術として出発した性のテクノロジーにおいて、「性の装置」が真理と権力の新しい配分の仕組みとして確立されたのである。  この性のテクノロジーは、個人の性を問題としながら、民族の純潔を問題とするような感受性を生み出すものだった。近代社会では性の問題が人種の問題、民族の純潔の問題に逸脱する可能性がつねに存在していた。自己の身体をあらゆる危険性から保護する必要があるように、人種という社会的な身体も、陶冶し、育むべきであり、危険な要素は排除する必要があると考えられるようになる。 [#ここから2字下げ] 一九世紀後半以来、性の装置を介して行使される政治的な権力を活性化させ、歴史の厚みを通じて維持するために、血のテーマが呼び出されてきたのである。この時点に、人種差別——国家が生物学的な方法で利用する近代的な人種差別——が形成された。……そして歴史のなりゆきとしては、性についてのヒトラーの政策は、滑稽な結末に終わったが、血の神話は、人間が思い出すことのできる最大の虐殺へと変貌したのである。(『知への意志』第五章) [#ここで字下げ終わり]  このように、近代の生−権力は、性というもっとも私秘的な場所に、われわれの身体を通じて支配するための拠点を確保した。個人は、他人にもっとも秘しておきたいとおもう問題であり、同時に好奇心をかられる問題である性という通路から管理される。性は家族や住民の間に「ミクロな権力」を生み出すと同時に、社会の身体の全体を対象とするマクロな介入を引き起こす。「性は身体の生というものへの手掛かりであると同時に、種の生というものへの手掛かりでもある」。 †欲望の理論の可能性[#「†欲望の理論の可能性」はゴシック体]  ここで一息いれたい。この時期のフーコーは、暗い思想家である。フーコーの権力の分析が深まっていくほど、生の可能性が失われていくような印象すら受ける。権力的な関係のうちでの抵抗の可能性が失われ、個人が自己の欲望を満たそうとすると、ますます権力的な網の目に絡めとられてしまうような理論の運びになっているからである。  これまでのフーコーの権力の理論の流れを追ってみると、近代社会がまず規律的な権力の社会として捉えられ、資本主義の社会にふさわしい身体と精神をもつ主体が形成されるメカニズムが分析されてきた。次にこの規律的な権力に重なるように、生−権力の概念が提起された。これは人々を調教し、道徳的な主体とするだけではなく、人々の欲望を掻き立てる権力である。人々は自分の欲望を拡大させながら、社会の中で生きる主体として自己を構築する。  これは息が詰まるような理論である。フーコーがこれから展開する統治性のプロジェクトは、フーコーの思想がもっとも暗くなっている時期に企てられたものであるだけに、われわれの生の希望は完全に失われるかにみえる。しかしフーコーが描き出す生の展望が闇に閉ざされるようにみえながら、どこかに明るさがみえ始めている。  たとえば、この時期にフーコーが提示した欲望の理論がある。『知への意志』の最後の部分で提起されたこの欲望の理論は、その可能性が十分に展開されていないだけに見過ごされやすいが、フーコーの晩年の実存の美学につながる思想が、ここでひそかに息づき始めているのである。  フーコーの欲望の理論がわかりにくいのは、二つの対立した性格をそなえているからである。まず性《セクシユアリテ》の装置は、人々の性的な欲望を掻き立て、身体の感覚と快楽の質を基礎として、生産し消費する身体を通じて住民を管理する目的を果たすものとして提示されている。  しかし一方で、この性の装置の概念は、人々が社会において自己の欲望を満たすのを望むことを否定できないという性格をそなえていた。欲望を満たすことを肯定することが、その装置の原理だからである。この欲望は性的な欲望だけに限定されない。人間の欲望は消費財に対する欲望であったり、好ましい人間関係に対する欲望であったり、よりよき生活に対する欲望であったりする。  この欲望の一般理論を展開したのが、一九七二年に刊行されたドゥルーズとガタリの『アンチ・オイディプス』であった。ドゥルーズとガタリがこの書物で提示した肯定的な欲望の概念は、資本主義と市民社会に適合的なものであった。規律社会の権力が生きた身体を従順な生産機械にしたとすると、管理社会の権力は生きた身体に欲望をもたせ、その欲望を拡大させ、新たな生産を可能にすることを目指す。人間が欲望機械となることによって、拡大し、成長し続ける社会のイメージが可能になったのである。  しかしフーコーの欲望の装置の理論は、ドゥルーズの欲望の理論とは異なる要素がある。フーコーにおいては、人間のもつ身体的な欲望は、生−権力への抵抗の根拠となりうるものとして見定められているからである。フーコーは『知への意志』では、欲望という語を避けて、快楽という語でそれを表現していた。最後の章で、「性の装置に対抗する反撃の拠点は、〈欲望である性〉ではなく、身体と快楽である」と述べられているのはそのためである。しかしこの〈快楽〉は広い意味では、自己のアイデンティティと真理としての性に囚われない人間の欲望の原理と考えることができるはずである。  社会が欲望の概念によって人々を組織しようとする時に、個人が社会の生−権力に抵抗することのできる重要な根拠は、自己の身体とその欲望である。生命、身体、欲求、幸福の満足を要求する権利は、生−権力という社会の原理そのものに組み込まれているものであるだけに、社会はそれを否定することができない。  正常性と規範性を強調する社会に対して、フーコーは自己の欲望の充足と生存と幸福の実現を求める権利を対置することによって、社会のあり方を変えていく可能性を示唆する。 [#ここから2字下げ] しかし一九世紀にはなお新しいものであったこのような権力に対して抵抗する力は、さらにこの権力が資本として用いたそのもの、すなわち生きるものとしての人間とその生に支えを見いだした。(『知への意志』第五章) [#ここで字下げ終わり]  ここでは権利を求める闘争ではなく、生を求める闘争が政治的に重要な意味をおびる。人々が自分の欲望に忠実に生きながら、自分たちの生活の現場で、権力のあり方と他者との関係を変えていくこと、よりよき生への欲望を根絶することなく、自己の欲望に忠実であること、そのことが社会を変えていくのである。 [#改ページ]   【第6章】[#「【第6章】」はゴシック体]   近代国家と司牧者権力[#「近代国家と司牧者権力」はゴシック体] [#改ページ] †「理性の逆説」[#「†「理性の逆説」」はゴシック体] 「啓蒙され尽した大地は、勝ち誇った凶徴に輝いている」——アドルノとホルクハイマーがナチスの迫害を逃れてアメリカの地で著した『啓蒙の弁証法』の冒頭のこの一文は、理性に支配されているはずの現代の歴史が、暴力と戦争と虐殺に彩られているという逆説を鮮やかなまでに示している。  自由をなによりも愛していたルソーの思想に依拠しながら、自由、平等、友愛という理念によって始まったはずのフランス革命は、「真理」に従わない者を抹殺するというテロルに終わった。民主主義と平和を守るはずの第二次世界大戦は、広島と長崎の原爆で終結し、人間の自由と平等を目標としたはずのマルクス主義の思想に依拠したソ連と東欧諸国では、全土が収容所列島と化した。 『知への意志』で提起された生−権力のプロジェクトを進めようとしていたフーコーを捉えていた疑問も、アウシュビッツと広島に象徴される〈理性の逆説〉の疑問だったようである。理性は暴力を追放できるだろうと考えられてきたが、皮肉なことに、理性がもっとも理性的なものとなった時代において、大地は暴力の「凶徴に輝いている」のである。  しかしフーコーはこの問題を、アドルノやホルクハイマーのように啓蒙そのものの問題として捉えない。ある形態の理性が別の形態の理性を、すなわち健全な理性が道具に堕した理性を批判するという方法自体が無効だと考えたのである。この考え方は、理性が内的な原因によって堕落したという暗黙の想定を含むのではないか。  理性が内部の原因によって堕落したものだと考えると、それを批判する理性の根拠が失われてしまう。ハバーマスも『啓蒙の弁証法』に言及しながら、おなじような考え方を表明していた。西洋の理性が堕落しているとすると、われわれ西洋の人間は、どのような根拠から、堕落していない理性をもちうるか、どのような根拠から道具と化した理性を批判できるか——ハバーマスはそう問い掛けた(28)。  これに対してフーコーの立てた視点はユニークである。フーコーはこう考えた。理性は内的な原因から堕落したのではない。理性がファシズムに象徴されるような暴力的な現れ方をした秘密は、ギリシアとヘブライの伝統を継ぐ西洋の理性の一回限りの歴史を分析することで解明することができるのではないか。理性が自己をどのようにして合理化したかを分析することによって、理性批判の根拠を確保できるのではないか。それは理性の歴史を否定せずに、理性の別の可能性を模索する道を拓くのではないか。これは、『知の考古学』以来進めてきた政治的な行為の分析を、〈理性の系譜学〉としてさらに深化させるものである。カントは理性の限界を示すために『純粋理性批判』を著したが、理性のこの逆説を解くには、『政治的理性批判』が必要なのではないか。  フーコーはその後の一生をかけてこの難問に取り組んだ。フーコーが『性《セクシユアリテ》の歴史』のプロジェクトを途中で修正したことに関連して、後期のフーコーについてはさまざまな評価がある——フーコーは行き詰まってしまった、生産性を失った、『知への意志』では倫理の問題を考えていなかったが、後期には倫理的な問題を重視するようになったなどなど。  しかしこれらの評価はどれも一面的な見方のように思える。取り上げられるテーマが多様であるだけに、フーコーの視点の一貫性を理解しにくいのだが、フーコーがこの問題を考え抜いた思考の強靱さには驚くべきものがある。 †生−権力の逆説[#「†生−権力の逆説」はゴシック体]  フーコーをこのプロジェクトに駆り立てたのは、国家が戦争という形で大衆を虐殺しはじめたのは、国家が国民の健康を気遣いはじめた時代でもあるということの奇妙さだった。「大衆の虐殺と個人の管理は、すべての近代社会の根深い二つの特徴(29)」なのである。国家が福祉国家を目指して国民の生活の幸福を目標としはじめた時代に、戦争という国家的な規模での殺人が行われるようになったことの不思議さがフーコーを捉えている。  この問題を集中的に検討したのが、一九七六年度のコレージュ・ド・フランスでの講義『社会を守れ』である。この講義でフーコーは、生−権力の概念によらなければ、この謎を解けないことを強調している(この講義はイタリア語版しか刊行されていないが、最終講義がフランス語で発表されているので、これに基づいてフーコーの見解を紹介したい)。  すでに述べたように、フーコーは近代社会は規律権力と生−権力が重層的に重なった社会であると考えていた。生−権力は、規律権力のように、個人を空間的に配置し、監視する権力ではなく、人間を集合として、すなわち住民として管理し、統治する権力である。この権力がターゲットとしたのは、住民の生と死であり、疾病、出生率、死亡率などだった。規律的な権力が人間の身体の「解剖政治学」だったとすると、この生の権力は「生の政治学(バイオ・ポリティックス)」と呼ばれる。  この権力は住民全体の生活と幸福に配慮する権力であり、外見的には理性的で、合理的で、穏やかな権力のようにみえる。フーコーが『臨床医学の誕生』で分析したように、この時期に医学と疾病の理論が本格的に形成されてきたが、それは病が住民の死をもたらすからというよりも、労働力の低下と労働時間の短縮のために経済的なコストが発生するからだった。疾病を防止することは、住民全体の福祉を向上させるとともに、社会の経済的な利益を守ることである。  われわれのように〈福祉社会〉と呼ばれる社会に生きていると、保健所が無料の健康診断を実施し、国が年金や失業保険を用意することはごく自然なものと感じられるようになっている。しかしフーコーはこれが特殊な近代的な慣行であり、新しい権力のありかたと結びついていることを強調するのである。 †〈人種〉の原理[#「†〈人種〉の原理」はゴシック体]  この生−権力の社会は、人間の生の尊重を謳う社会であるが、この社会の権力は自己矛盾を抱えているようにみえる。広島の原爆が象徴的に示したことは、人間の生を重視することを原理とするはずの社会が、一挙に数十万の無辜の民を殺す社会でもあるということだった。  原爆を製造する社会、それは殺害する権力の社会であり、生を破壊する社会である。この社会はまた、遺伝子操作や病気の治療という名目で、過剰に生を破壊する物質を作り出す社会である。フーコーはこの物質を「普遍的に破壊する制御不能のヴィールス(30)」と呼んだ。これはエイズを指した言葉ではないが、生のために利用されるはずの科学的な手段が、逆に多数の死を生み出すという現代社会の縮図がここにみえる。  それではこの生−権力は、どのようにして死の権力に変貌するのだろうか。生を謳う権力はどのようにして、敵だけではなく、自国の市民たちに死を命じ、殺し、相手を殺戮させることができるのだろうか。  フーコーは、それを可能にするのが〈人種〉という原理だと考える。生−権力は、国民を生かすことを原理とする権力であり、その原理に従う限り、自国の国民を戦場に追いやって殺戮することも、無抵抗な他国の住民を殺戮することもできないはずである。そこに一つの差異を持ち込むのが〈人種〉の原理なのである。  フーコーがここで考えている〈人種〉という原理は、ナチスが考えた「民族の共同体」を構成する生物学的な人種の概念を含むものであるが、それよりもさらに広く、国民の中の生かしておく部分と、殺してしまう部分を分離するために利用される概念と理解すべきであろう。  これは人間の種に、「よい種」と「悪い種」という区別を導入することによって、人間という種全体を、死ぬべく定められた人間と、生きるべく定められた人間に分割することである。『ショアー』や『シンドラーのリスト』をはじめとして、ホロコーストを描いた映画は多いが、どの映画をみても、ただユダヤ人に属するということだけで、それまでの普通の暮らしを捨てて、死への道を歩み始めることを強制される理不尽さに衝《う》たれる。  隣人は普通に生き続けるのに、自分は故のない身体的かつ生物学的な理由で殺戮される。人種差別とは、種の空間を細分化し、その一部だけを「特別待遇」することである。  フーコーは、近代のバイオ・パワーにおいてこの人種差別が必要とされたのは、住民を細分化することによって、殺す原理を導入するためであったと考えている。他者を多く殺すほど、自分の生が確保できるという戦争の原理そのものは、新しいものではない。人種差別の原理の新しさは、人々を生かすことを支配の原理とする生−権力の社会に、殺す原理を持ちこんだことにある。人種差別が近代の社会にいたるまで存在しなかったというのではなく、近代の生−権力の社会にいたって、国家の政治的な機構において、人種差別が枢要な役割を果たしはじめたのである。  第二次世界大戦におけるナチズムのユダヤ人差別、明治以来の日本での朝鮮人差別、米国における日系移民の差別に示されるように、人種差別とは身体的で生物学的な根拠に基づいて、他者を殺戮し、貶め、屈辱を味わわせる原理である。人種差別によって、他者に死をもたらし、「悪しき種」を滅ぼし、「劣った種」や「異常な種」を絶滅すれば、われわれの生そのものがさらに健全で、正常で、〈純粋〉になると考えるのである。  この観念は啓蒙や普遍的な人間性という近代の論拠では対抗できない。ここで蠢いているのは、生物学的な純粋性の観念、他者の死のもとに自己の生を確保しようとする盲目的な欲望である——そこに人種差別という「野蛮」の秘密がある。 [#ここから2字下げ] 戦争とは二つのことを意味するようになった。それはたんに政治的に敵対する国を破壊することではなく、…好ましくない人種、生物学的に危険な人種を、われわれという人種のために破壊することである(31)。 [#ここで字下げ終わり] †純粋さを目指す戦争[#「†純粋さを目指す戦争」はゴシック体]  一九世紀以降の戦争には、人種戦争という側面がつねにつきまとっていた。好ましくない人種を破壊することは、われわれという好ましい人種を再生させるための一つの方法である。われわれの人種の中から排除され、摘出される「汚れた部分」の数が多いほど、われわれはさらに純粋になる。戦争とは、ある意味では人種浄化運動なのである(旧ユーゴスラビア内戦では、兵士のレイプによる他民族の「汚染」の試みと人種浄化の原理が重要な役割を果たしたことを思うと、フーコーのこの指摘の先見性に驚かされる)。  戦争だけでなく、犯罪者、精神障害者、狂人、性倒錯者についても同じような浄化の論理が適用される。優生学とは、生物学的なコントロールによって、「汚れ」を除去し、人種の浄化を図る学であり、生の原理によって人々に死をもたらす学問であるとすると、生−権力とは優生学を原理とする権力だと言うことができる。  人種差別を行う人は、個人と個人として向き合っているのではなく、一つの集団のある普遍性に基づいて、集団として差別するのである。戦前の日本には「非国民」という言葉があったが、これはその個人が信じる一つの正常性のカテゴリーに入らない者(パーマをかけている人、英語を話す人、朝鮮人に同情を示す人)を、日本という国家、日本人という「民族」の普遍性の立場から非難することによって、安全な立場から弱者を攻撃できるという仕掛けをもっていた。フーコーがここで指摘している人種差別の原理は、まさにこの非国民の原理である。日本の学校で蔓延している差別と迫害が、「汚い」「よごれ」という言葉をキーワードとしていることを考えると、これは日本の社会にうまく棲みついた原理だということになる。  フーコーはナチズムが、バイオ・パワーという生−権力の国家において初めて可能になった権力であることを強調している。ナチズムの特殊性は、生かす権力の社会に登場しながら、アーリア人の血の純粋性という架空の概念に基づいて、国民の中の純粋でない部分を排除するという方法に頼ったことにある。このため、他の人種を破壊しながら、ドイツ国民そのものを破壊していった。  かつてシモーヌ・ヴェーユは、戦争とは軍の参謀本部などの国家のすべての装置が、国民全体に仕掛けた戦いであると語ったことがある。戦争は階級的な対立をさらに尖鋭的な形で示したものであり、国家の装置は「自国の兵士を強制的に死に追いやる以外に、敵に勝つ手段がないので、ある国家と他の国家の間の戦争は、ただちに国と軍の装置と自国の兵士たちとの戦いに転化する」というのである(32)。  ヴェーユは、戦いに駆りだされる兵士という視点から戦争の構造を見抜き、革命戦争というものはないと喝破した。革命家が指導するものであっても、戦争とは最大級の抑圧であり、戦場とは兵士たちの大量虐殺の場であると主張したのである。  フーコーはこのヴェーユの洞察を引き継ぐかのように、戦争とは国家が自国民を殺す仕掛けだと考える。ヒトラーの国家は、自国の民族の〈純粋な血〉をさらに純粋にするために、他の人種を絶滅するという「最終解決」を採用した。しかし民族の〈純粋な血〉を守るはずのこの政策は、自民族の純粋な血を戦場で流し、ついに国家として崩壊するという逆説的な帰結を招いた。フーコーはこれは、近代の生−権力の国家の一つの結論だったと考えている。この生−権力は、生かすこと、国民の生活の福祉を向上させることを名目としながら、〈人種〉の原理によって、自国の国民を戦場に追いやったのである。  大地が凶徴に輝いているとすれば、それは啓蒙が神話に堕し、理性が道具的な理性に堕したからというよりも、生−権力である現代の〈福祉国家〉の逆説的な原理を極限の姿で示しているからである。 †統治性のプロジェクト[#「†統治性のプロジェクト」はゴシック体]  フランス革命の教訓は、外的な原理を排除し、理性の内的な合理性だけに準拠しようとした啓蒙の国家が、テロルの国家に変身するという逆説だった。ファシズムの教訓は、生を至高の目的とする国家が、国民を大量に虐殺するという逆説だった。それではこのような逆説はどのような歴史的な経緯によって誕生したのだろうか。この生−権力の出自を系譜学の方法で解明しようとするのが、統治性のプロジェクトである。  フーコーはこの生−権力の歴史的な考察を、〈統治性 gouvernementalite〉という統一的な視点から行う。これは、西洋の社会の政治的な理性の素性と隠れた由来を暴き出そうとする壮大なプロジェクトである(統治性という用語はフーコーの造語であるが、他者の統治である政府 gouvernement と、自己の統治である道徳性の両方の意味を兼ねそなえた言葉であり、フーコーのこのプロジェクトにふさわしい名称だと思う)。  この時期のフーコーの研究活動は、『性《セクシユアリテ》の歴史』のシリーズの第二巻と第三巻である『快楽の活用』と『自己への配慮』を除くと著書として発表されておらず、これまであまり紹介されていなかった。これらの二冊は、フーコーの思考の歴史における特異な著書として、孤立して取り扱われがちであるが、このプロジェクトの視点に立たないと、理解しにくい部分がある。  ただしこの統治性のプロジェクトは、フーコーの長年の理論的な模索によって少しずつ形をなしていったものであり、全体像が捉えにくいので、ここで簡単に要点をまとめておきたい。  この章の残りの部分では、統治性のプロジェクトの前半部分、すなわち司牧者権力から生−権力にいたる歴史的な考察の部分を取り上げる。フーコーは時代を溯りながら、生−権力の原理が歴史的にどのように形成されていったかを追求する。  まず近代の初頭に誕生した一つの政治学的な原理が、この生−権力の原理と系譜学的な結びつきがあることを確認する。これはポリツァイという原理である。このポリツァイ(フランスではポリスと呼ばれた)は、国家の生命力を維持するために、住民の生活の福祉を向上させることを目的とする学問であり、国家機構である。  さらに時代を溯ると、ポリツァイの目的である国家の生命力という原理を提示した理論が確認される——レゾンデタ(国家理性)という理論である。ここではじめて国家の維持が支配の自己目的とされるのである。  そしてフーコーは、キリスト教の権力に、この理論とまったくおなじ構造をそなえた権力を発見する。それが司牧者権力である。この権力は、みかけの上は信者の〈魂の救済〉を目的としながら、そのことによって自己の支配の合理性と正統性を確保するのである。  終章で取り上げる統治性のプロジェクトの後半部分は、この司牧者権力の内的な構造を、その道徳性という観点から分析する。ここでは、司牧者権力が〈自己の放棄〉という原理で形成されていたことが明らかにされる。フーコーはこの〈自己の放棄〉という原理が、古代のギリシア以来の自己の統治という原理とまったく異質なものであることを指摘する。そして、ギリシア以来の道徳性に、近代の国家を刻印している生−権力の原理と異なる原理の可能性をみいだそうと模索するのである。 †ポリス/ポリツァイ[#「†ポリス/ポリツァイ」はゴシック体]  まずフーコーは、この生−権力が歴史的に行使されてきた状況を調べながら、この権力を確立した学問と組織にたどりついた——一九世紀のフランスのポリスとドイツのポリツァイである。このポリスという用語は、現在では警察を意味する言葉になっているが、警察のように社会の治安を維持することだけを目的とするのではなく、住民の最適な健康を確保し、寿命を長くするという生−権力の専門組織とその学問を呼ぶ名称だった。戦前の日本では内務省という組織がほぼ同じような機能を担当していた。現在の日本の自治省と厚生省と警察庁が一体になったような組織と考えればよいだろう。  これは特に新しい概念ではない。一九世紀初頭のヘーゲルの時代のドイツでは、政治学の一つの分野として確立されていた学問である。ヘーゲルが『法哲学』で展開した国家と社会の理論では、市民社会は個々の市民の欲求が織りなす特殊性の領域とされていた。この「欲求の体系」としての市民社会は、さまざまな個人の利害がそのまま衝突する場であり、それ自体ではさまざまな矛盾を解決することができないため、生活の福祉のために別の組織が必要とされていた。ここでポリツァイが登場する。  福祉行政とも訳されるポリツァイは、社会における市民たちの特殊な利益を、国家の普遍性の側から保護し、確保することを目的とするとされている。これはヘーゲルだけの思想ではなく、当時のドイツやフランスでは、このポリツァイの学が社会の統治のための重要な手段と考えられていた。  これは「国内において、国家の力を増大させ、国家の力を活用し、国民の幸福を確保する」ために必要な手段の総体として定義される学問である(33)。具体的にはこの組織は、経済的な規制の分野では、商品の流通、生産手続き、職人の義務などを対象とする。さらに治安の分野では、危険な個人の監視、浮浪者(時には乞食)の追放、犯罪人の探索などを対象とする。一般的な衛生規則の分野では、販売される商品の品質の監視、水道の供給、街路の清掃などを担当する。  フーコーは、一九七八年度のコレージュ・ド・フランスの講義「治安、領土、住民」で、この社会のすみずみまで監視の眼を光らせる権力を分析しているが、この権力が監視を行う目的は、パノプティコンの権力の監視の目的とは異なる。  この権力が標的としているのは、人間の道徳性でも主体性でもなく、人間の生活の安全性と幸福である。オーウェルの『一九八四年』では、住宅の内部に配置されたテレビカメラが、国民の生活を隅々まで見張っていた。しかしポリツァイの権力は住民の幸福を目指す福祉国家の権力であり、オーウェルの世界のような全体主義国家の権力ではない。それよりもはるかに精密で、柔軟性が高く、効率の高い権力なのである。  全体主義国家は、一つのイデオロギーのもとで、国民に一定の規範から外部にでることを許さず、ピラミッド型の統治を行う。しかし近代福祉国家は、一定の範囲でさまざまな逸脱を許すことで、支配の効率と柔軟性を高めている。これは新しい種類の国家であり、この国家は権力を行使する際に、細部にわたる国民の管理を必要とする。  ドゥルーズは、フーコーが『監視と処罰』で描いた規律社会はすでに過去のものであり、現在は管理社会であると語ったことがあるが、フーコーのこの福祉社会という概念は、ドゥルーズの提唱した管理社会の概念に近い。しかしフーコーがこの管理社会のイメージを提示した目的は、社会のモデルを描くことではなく、こうした福祉国家の名に隠れて行われている支配のあり方を批判し、これと闘うことであった。フーコーはこの闘いは帝国主義に対する闘いやファシズムに対する闘いとは質が異なるものであり、非常に困難なものであることを認めている。  これと闘う必要があるのか——というのは、当然な疑問であろう。福祉社会において国民が生活を保障されるべきであるというのは、現代において当然の権利と考えられているのである。しかしフーコーは、このような細部における権力の浸透がもたらすものを問題としているのである。  福祉社会という理念は美しいとしても、福祉の名において国家が住民を管理するという発想や、国家に福祉を保障してもらうという発想に落とし穴はないだろうか。それは管理の網の目をさらに厳しくしてしまう結果にならないだろうか。政府が国民の情報を収集し、国民には情報を与える必要はないという考え方を生まないだろうか。そしてこのシステムに属さない者の〈福祉〉は守られるのだろうか。  また、福祉社会の先進国である北欧諸国やカナダと米国が、優生学研究の先進国でもあることに示されているように、生活を保障する社会は、「劣った」生命を抹殺することで、生活の質の高さを維持する方向に向かう危険性はないだろうか。 †国家理性《レゾンデタ》[#「†国家理性《レゾンデタ》」はゴシック体]  このようにポリスの問題から国家の生−権力を分析していくと、歴史を溯った地点に、この権力の基本的な原理となった理論がみつかる——「国家理性 raison d'Etat」である。ヘーゲルが考えた市民社会は、市民の欲求の体系として国家の内部にあるものであった。しかし近代国民国家の形成は歴史的には最近の事件であり、それまでは中世の政治的な機構である帝国と、社会的な機構である封建社会の中に埋めこまれていたのである。国家の中で社会が自立する前に、近代的な国家がこの巨大な機構から自立するための基本的な原理が必要とされた。これが国家理性の概念だった。  現代では国家理性《レゾンデタ》という用語は、国家の維持を至高の目的として、そのためには道徳などの価値をある程度まで犠牲にするのもやむを得ないという文脈で使われることが多い。しかしこの理論が生まれた際には、これは統治の正統性を示すために利用されたのである。  それまでも、支配者が自分の権力の正統性を証明する理論は存在していた。たとえばローマ帝国の支配者は神の権威に基づいて、自己の権力と権威が正統なものであることを主張していたのである。中世全体の時期にわたって、支配の正統性と合理性は、ローマ法の伝統を継ぐ神の法、自然の法、人間の法という法学体系に依拠していた。  たとえばトマス・アクィナスは、王国の統治が合理的なものであるためには、その統治の技術が自然を模倣しなければならないと語っている。国王が神による自然の支配、または魂による身体の支配を模倣する限りで、国王の統治は正統なものと判断されることになる。神が世界を創造し、魂が身体に形を与えたのと同じ方法で、国王は国家を統治することを求められた。  それではこの自然を模倣した方法とは何か。それは人間の目的を実現するということである。それでは人間の目的とは何か。それは徳に適った状態で生き、彼岸において至福を得ることである。だから国家の統治の目的は、自然の法に適った形で、此岸における道徳的な生と彼岸における救済を確保することにある。  この伝統的な政治学の原理を顛倒させたのは、マキアベッリだった。マキアベッリはこのような人間の目的という神学的な原理によって、国家と統治の正統化を行うという方法を捨て去ってしまった。マキアベッリの政治学は、卑劣な方法や裏切りなど、あらゆる手段に訴えても、君主が領地を支配するための権力を確保する方法を考察するものだった。  しかしフーコーは、国家理性という原理は、このマキアベッリの政治学に反対する思潮から登場したと考える。話が入り組んできたが、要するにフーコーが考えているのはこういうことである。国家理性という原理は、神の支配と国家の支配の結びつきを断絶したマキアベッリの理論を踏まえて生まれた。しかしマキアベッリのように国家の原理を、統治者の権力の維持という視点から導き出さない。国家理性という原理は、国家の〈力〉そのものを目的とする原理なのである。  この国家理性の原理は、生−権力の原理とどのように関係してくるのだろうか。フーコーがここで注目しているのは、「国家理性」という理論では、国家の目的や本質が、外部の要素(人間や自然の目的、神の意志)から導き出されるのではなく、国家の〈力〉の維持という原理に依拠していることである。これは、国家の存続そのものを自己目的とするというまったく新しい考え方が誕生したことを意味する。  それまでの国家の理論では、国家はある目的を達成するための手段として考えられていた。しかしマキアベッリの理論に反対して生まれた新しい国家の理論は、国家そのものが目的であり、国家を構成する要素(住民)は、国家を維持するための手段にすぎないと考えるのである。  国家理性の理論は、国家と調和しつつ、国家の力を増強する能力をもった合理的な統治という性格をおびる。この理論が目的とするのは、神の法や自然の法との一致ではなく、特定の国家の力と調和した統治を実現することであり、この力を増大させることである。  この理論は、国家の力の拡大を目的とし、そのために住民の福祉を追求することで、ポリツァイの理論や生−権力の理論と共通している。いずれも統治が自己目的とされているのであり、統治の目的は人間の道徳性でも、人間の救済でも幸福でもないのである。 †司牧者権力[#「†司牧者権力」はゴシック体]  この国家理性とポリツァイの理論の共通性は、権力の正当性の根拠が、国民の幸福などのような内容ではなく、国家の目的あるいは力という形式的な原理に基づいていることである。そしてこの形式的な原理に基づいて、国家は国民を殺すのではなく、生かすことを目的とする。国家の力は、国民の生命によって得られるのである。それではこのような理論はどのようにして生まれたのだろうか。  フーコーは権力の系譜学の探索を進めながら、さらに時代を溯った地点において、国家の統治の理論と構造的に同じ原理をもつキリスト教の権力理論を掘り出した。この理論と福祉国家の理論の共通性を見いだした時のフーコーは、ついに理性の逆説の謎を解いたと考えたにちがいない。  これはたんに近代の理論と同じ構造をしているだけでなく、古代の統治の理論である〈自己の統治〉という考え方と、深い内面的な共通性のある理論である。この権力の理論——司牧者権力は、古代から近代にいたる権力と理性の理論を貫く視点を確保する要《かなめ》の位置を占めているのである。この権力について詳しく分析したのが、一九七九年の「全体的なものと個別的なもの」という講演である。  この司牧者権力とは、キリスト教会の司祭による信徒の支配の理論であるが、この権力の構造はどこが近代の統治の理論と共通しているのだろうか。それは司牧者権力が、他者の幸福を目的とするというみかけのもとで、教会の支配の原理を貫徹しようとすることにある。  司牧者 pastorat という言葉は、羊飼いと司祭という二つの意味を含んでいる言葉である。ヘブライ民族やエジプト王国では、民は羊であり、王や民族の指導者は羊飼いであるという比喩がよく使われた。羊飼いは、羊の面倒をみることを務めとし、羊が安全に守られるように配慮する。羊飼いは羊のために存在するのである。  羊飼いは羊をつれて移動しながら、羊を世話する。この羊飼いの権力は、通常の政治権力とは異なり、領地を支配する権力ではなく、多様な個人、移動する群の中にいる個人を対象とする。「移動する多様な存在の上に君臨すること」——それが羊飼いの権力の特徴である。この権力においてもっとも重要な機能は、敵に対して勝利を得ることではなく、自分が守る人々の幸福を確保することにある。個人の生活の物質的な福利を確保するという日常的な目標を達成することがこの権力の目標なのである。  さらに羊の群の生活を保証するという役割から派生して、羊飼いは人々に貢献するという道徳的な役割を担うようになる。「良き牧人、良き羊飼いは、羊のために自らの生を犠牲にする者」である。伝統的な権力においては、良き臣下とは君主のために自分の生を犠牲にする者であったが、この権力においては支配する者が、臣下のために自分の生を犠牲にすることを求められる。  この羊飼いの権力は、そのままの形でキリスト教に引き継がれたわけではない。へブライ的な羊飼いは、自分の羊の群れの全体と個々の羊の運命に責任を負ったが、キリスト教の司祭は、個々の信徒の運命そのものよりも、その羊が行う良いことと悪いことについて責任を負う。個々の信徒の罪を、司祭も負うのである。またヘブライでは、個々の羊は神に服従するのであり、神への服従を通じて羊飼いに服従した。しかしキリスト教では信徒は、司祭に対する個人的な服従の絆を通じて神に服従する。ここでは服従そのものが美徳とされる。言わばヘブライの羊飼いは現世における自分の羊たちの幸福を気遣うのであるが、キリスト教の司祭が気遣うのは、現世の幸福ではなく、彼岸における信徒の救済である。  このようにヘブライの支配者とは異なる課題を達成するために、キリスト教の教会において確立された支配構造が司牧者権力である。この権力はなによりも信徒の魂の幸福を気遣う利他的な権力であるかのように装う。しかしこの司牧者は、もはや羊たちの幸福を本来の目的としていない。来世における魂の救済という〈餌〉によって、羊たちをみずからの支配下におくことを目的としているのである。この倒錯した支配の構造については、すでにニーチェが『道徳の系譜』で、「禁欲主義的な司祭」の支配のからくりを暴いていた。「この稀有な牧者、彼は自分の病める羊たちをまったく親切に守ってやる」、しかし彼は「傷の痛みを鎮めながら、同時に傷口に毒を塗るのだ」と。  そのために利用されたのが、告解の技術である。信徒たちに自分の魂の状態をありのままに語らせること、自分の犯した罪を告白させること、しかもそれを他者のためではなく、信徒みずからの救済のために行わせること、このことによって司牧者は信徒たちの完全な支配を実現するのである。  フーコーはこの司牧者権力は、国民の生命と安全を第一に重視する福祉国家の権力と、その原理であるポリツァイの理論や国家理性の理論と構造的にぴったりと重なっていると考えている。国家は国民の幸福のためにあると主張することで、国家の統治の合理性を確保しようとする近代の生−権力と、教会は信者の幸福のためにあると主張することで、教会と司祭制度の支配の合理性を確保しようとしたキリスト教的な権力は、同じ構造をそなえているのである。すべての国民を絶え間なく監視しようとする生−権力は、信徒の心の中まで覗きこむ司牧者の権力と、瓜二つにみえるのである。 †統治性のプロジェクトの結論[#「†統治性のプロジェクトの結論」はゴシック体]  フーコーは、この司牧者権力は、生かす権力でありながら、殺す権力よりもさらに残虐で暴力的になりうる権力だと考えた。これがバイオ・ポリティックスの分析以来のフーコーのプロジェクトにおける一つの結論である。  この統治性のプロジェクトの出発点は、「われわれの社会、すなわち古代末期にヨーロッパ大陸の西斜面に出現した西欧社会は、歴史上のすべての社会のうちでもっとも攻撃的で、もっともほしいままに征服した社会」であり、「みずからに対しても、他の社会に対しても、唖然とするほどの暴力をふるうことができる社会だった」のはなぜかという疑問だった(34)。  その回答がここに示されたわけである。フーコーは、理性を重視し、理性の合理性を重視する社会が、野蛮に陥り、もっとも非理性的な行動に走ったのは、近代的な国家という装置を発明したこの西洋の社会だけが、一握りの司牧者が多数の人々を羊の群れとして保護する奇妙な権力のテクノロジーを引き継いでいることにあると考えている。  近代国家とは、これまでの数世紀にわたって、人間の統治のもっとも恐るべき装置であった。この国家の支配の原理は、司牧者のテクノロジーに基づいて国民を個別化して統治するとともに、生活の隅々までを監視する全体主義の原理を内部に孕むものであった。フーコーは、この原理を批判しない限り、解放の可能性は閉ざされていると考える。 [#ここから2字下げ] 政治的な合理性は、西洋社会の歴史の流れに沿って発展し、重きをなしてきた。これはまず司牧者権力の観念の中に根づき、次に国家理性《レゾンデタ》の観念の中に根づいた。個別化と全体化は、その不可避な所産であった。その所産の片方だけを攻撃することによってではなく、政治的な合理性の根源そのものを攻撃することによってしか、解放の道を拓くことはできない(35)。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   【第7章】[#「【第7章】」はゴシック体]   実存の美学[#「実存の美学」はゴシック体]   ………………………………………   『快楽の活用』『自己への配慮』 [#改ページ] †統治性のプロジェクトの袋小路[#「†統治性のプロジェクトの袋小路」はゴシック体]  前の章で紹介したように、フーコーはキリスト教の司牧者権力(司祭を中心とする教会の権力)に、近代の福祉国家の権力の起源をみていた。理性と合理性の権力は、司牧者権力を支配のテクノロジーとして採用した。さらに国家理性とポリツァイの理論を原理とすることで、国家の力の維持という自己目的を追求するようになった。その過程において、この生の権力は死の権力に変貌していった。これが統治性のプロジェクトの結論だった。しかしこの結論には、重要な欠落が存在していることにフーコーは気づくようになる。  フーコーが以前から重視していた真理への意志と欲望の問題が、まったく抜け落ちているのである。真理への意志の理論が提示したのは、何が真理であるかではなく、人が何を真理と信じ、その信念に従って行動するかの方が重要であるということだった。欲望の理論が明らかにしたのは、人々が生の権力に対する抵抗の拠点として利用できるのは、自己の身体と欲望だけであるということだった。しかしこれまでに統治性のプロジェクトで提示された理論的な枠組みでは、その二つの要素がすっぽりと抜けてしまっている。  人々が司牧者権力に組み込まれていったとすれば、それは教会の教えが真理であると信じたからであるが、人々がこのような異様な権力のありかたが正しいと信じていったのはなぜか。そのメカニズムを解明しない限り、司牧者権力と生−権力の秘された結びつきを明らかにしても、なにも変わらないのではないか。  さらに、司牧者権力を引き継いだ生−権力が、人々の幸福を目的として支配する限り、この福祉社会が死の権力と化すことに対して、抵抗することはできないのではないか。生−権力が死の権力に変貌して、戦争において無辜の民を殺戮することは防げないのではないか。  フーコーは、統治性のプロジェクトが一つの袋小路に入っていることを自覚しはじめる。生−権力の理論が説得力をもてばもつほど、権力への抵抗の可能性が失われ、諦めが支配するようになりかねない。  この権力に対する抵抗の拠点は何か。それはすでにフーコーが考えていたように、欲望をもつ人間が、自己の身体と欲望に忠実であることによって、新しい可能性を拓き、新しい生き方を作り出していくことであるはずである。フーコーはこの生き方を実存の美学と呼ぶ。 『性《セクシユアリテ》の歴史』のシリーズの二冊目の『快楽の活用』で提示された概念である実存の美学とは、「人がみずから行動の規則を定めるだけでなく、みずからを変え、固有のあり方において自己を変貌させ、自己の生を美的な価値をもつとともに、生き方のスタイルについての特定の基準に適った一つの作品に作り上げようとつとめる」ことである。  フーコーはこれを「自己からの離脱」とも呼んでいるが、これは思考することにおいて、これまでの生き方のスタイルそのものを変えていこうとする営みである。フーコーは、自己の生き方を問いながら、他者との関係を作り替えていくことを生のスタイルとするこの実存の美学を実践してみせた。それを象徴的に示しているのが、〈ゲイ〉の理論である。  この時期にフーコーは、自分がホモセクシュアルであることを公式に認め、そのことを自分の生き方に反映させようとしはじめた。フーコーは、ホモセクシュアルで〈ある〉ことが重要なのではなく、ゲイに〈なる〉ことが大切だと考えた。そのためには、ゲイを自分の「自然」と考えたり、ゲイの権利が認められることを要求したりするのではなく、ゲイを一つの新しい生き方として生きることが重要だと考えるようになった。  自分をホモセクシュアルであると考えて、「わたしとはだれか、わたしの秘密の欲望は何か」という問いに巻き込まれるのではなく、「ホモセクシュアルであるということによって、どのような新しい関係が確立でき、発明できるか。それを多様化し、調整するにはどうしたらよいか(36)」と考えるのである。自己の性《セクシユアリテ》の真理を発見するのではなく、自己の性的な欲望を活用して、他者との関係性を多様化すること。  フーコーはこの考え方を、一つの愉快なモットーとして表現した——〈必死になってゲイになろう〉というのである。ゲイに〈なる〉こと、それは現在の社会で公認されていない新しい生き方を模索すること、他者との間で友愛に満ちた新しい関係を模索することである。  フーコーはゲイという言葉を、ホモセクシュアル/ヘテロセクシュアルという生物学的な区別から解放され、一つの運動、文化としての可能性を示すものとして使う。快楽を一つの新しい文化を形成するための触媒とする可能性。これは性を抑圧と解放のプロセスと考えるのではなく、新しい可能性の創造の試みと考えようとすることである。 〈ゲイ〉であることによって、新しい他者との関係を構築しようとすること、それは自己との関係、他者との関係を問い直すこと、すなわち新しい〈エチカ〉を模索することである。この観点からみると、フーコーが近代の福祉国家の原理の成立について、歴史的に分析してきたプロジェクトは、まだ未完成であることが明らかになる。  キリスト教の司牧者権力が告解という方法で、人々に自己の欲望を解釈させるようにしむけた秘密はなにか。告白によって自己の性の欲望の真理を発見するという形でしか、自己の性の欲望とかかわることはできないのか。キリスト教的な道徳のあり方と異なる別の道徳の歴史は存在しないのか。生−権力に抵抗する拠点を確保するには、これらの問いを解明する必要があるのである。フーコーは晩年のインタビューで次のように語っていた。 [#ここから2字下げ] うまくいかないと気づいたのは、その仕事(『知への意志』)をしながらでした。重要な問題が残っていたのです。すなわちなぜわれわれが性から道徳的な経験を作り上げたかということです。そこでわたしは一七世紀についての仕事を放棄し、閉じこもって時を溯り始めました。キリスト教の初期の経験を調べるためにまず五世紀に、それからその直前の古代の末期に。最後に三年前に、紀元前四世紀と五世紀の性についての研究で締めくくりました(37)。 [#ここで字下げ終わり]  この性と倫理と真理の関係を模索する中で、フーコーはギリシアと古代ローマ帝国において存在していた司牧者権力の伝統とは異なる道徳性の歴史を分析し、この異なる道徳性の歴史がいかにして司牧者権力に引き継がれていったかを検討しはじめる。『性の歴史』の第二巻から第四巻は、この新しい視点で書かれた書物である(ただし第四巻は未刊のままである)。  これはいわばニーチェの『道徳の系譜』を別の視点から書き直そうとする試みである。西洋の社会の道徳とは異なる道徳の系譜を探りだすことによって、生−権力に抵抗する原理が見いだせるのではないか——フーコーはこう考えていたはずである。  この観点からみると特に重要な意味をもつのは、キリスト教的な道徳が確立される以前の時期において、自己との関係が重要な問題となった時期である。フーコーはこの問題に関して二つの「黄金時代」があると語っている——古典古代のギリシアおよびヘレニズムの時代と、ローマ帝国の時代である(38)。この時代においては、性の問題を軸として、新しい生き方、新しい道徳性が模索されたのである。  この章では、『性の歴史』のシリーズの残りの三冊で取り上げられたそれぞれの時代に、どのような生き方が探求され、それがどのような道徳の理論に結実したかを調べてみよう。ここから、欲望をもつ人間が真理に対してどのような姿勢をとるかが、道徳性の誕生に重要な役割を果たしていることが明らかになってくるはずである。 †『快楽の活用』——古代ギリシアの道徳[#「†『快楽の活用』——古代ギリシアの道徳」はゴシック体] 『性《セクシユアリテ》の歴史』シリーズの第二巻の『快楽の活用』では、古典古代のギリシアにおける性《セクシユアリテ》の問題が分析される。フーコーはこの書物と第三巻の『自己への配慮』において、ギリシアの道徳性は自己の統治を中心的なテーマとして展開されることを明らかにするが、この書物ではギリシアの道徳がキリスト教の道徳とはどのように異なり、どのように継承されたかが検討される。  ギリシアにおける性の欲望については、一般には次の四つの側面で、近代のキリスト教の道徳とは対照的な道徳的な規範を定めていたと考えられている——性行為の意味、一夫一婦制、同性愛、純潔である。一般的な考え方によると、古代のギリシアにおいては性行為には積極的な意味が認められていたが、近代のキリスト教道徳ではこれを悪や原罪などの消極的な観点で考えた。古代においては一夫一婦制は重視されなかったが、近代ではこの制度のもとでのみ性行為が認められた。古代では同性愛が賞賛されたが、近代ではこれを禁圧した。古代では処女性(純潔)を貴ばなかったが、近代では処女性が重視された。  フーコーはいつものように、こうした通念を解体する。たしかに近代のキリスト教道徳では、過度の性行為や倒錯した性行為は非難された。その個人には死がもたらされ、人間という種が汚染されることが恐れられたのである。しかし実はこうした恐怖は、一世紀のギリシアの医師のテクストにそのままみられる。また近代のブルジョワ社会では、一夫一婦制を尊重すべきであることを教えるために、伴侶を亡くすと二度と性の交わりをもたない象の比喩が使われた。しかし実はこれはアリストテレス以来の古代の伝統を引き継いだものにすぎない。近代では同性愛は、人間の自然に反するとして強く非難されてきた。しかしこの反自然性のイメージは、すでに帝政期のローマにおいて登場しているのである。最後にキリスト教の道徳では、真理と愛の求道のために純潔を保ち、快楽から身を背ける人間像が美徳の鑑とされたものだった。しかし異教の古代においても、自己を抑制し、欲望を抑えて性の快楽を断念する節制の闘士のイメージがあった。ギリシアにおいてはこうした禁欲は、自分に対する制御の強さと、他者に対する支配の能力を示すものであった。  フーコーはこれらの四つのテーマが、時の流れの中で変わらぬ要素をそなえていることを指摘している。性に対する厳格さへの配慮が、異なった図式で定式化されているだけなのである。フーコーはこれらのテーマについて、古代のギリシアのテクストを渉猟しながら、性の行為を慎む必要性(養生術)、夫婦の関係を支配する技術(家庭管理術)、若者との恋愛作法(恋愛術)という三つの問題系で検討する。これらの三つのテーマを統合するのが、純潔を守る意志と真理の関係(真理の問題系)である。 †性の欲望と自己の統治[#「†性の欲望と自己の統治」はゴシック体]  まず性の営みという養生術の問題系から考えよう。近代のキリスト教的な道徳では、性の交わりは、人間という種を保存するための必須の営みでありながら、恥ずべきもの、隠すべきものであると考えられてきた。フーコーが繰り返し指摘しているように、近代社会で性行為がこのような否定性の刻印をおびているのは、キリスト教の道徳において、性というものが人間の原罪と結びつけられたからである。  しかし古代のギリシアでは性交為そのものが悪とされたわけではなかった。それは性という営みが、本人の身体と精神に好ましくない影響を与える可能性があるからだった。古代においては性の営みは、他者との関係ではなく自己との関係から、自己の統治という視点から問題とされているのである。  次に一夫一婦制という家庭管理術の問題系においては、近代のキリスト教社会では、男は妻以外の女と交渉をもつことは許されなかったため、男は快楽を妻からしか得ることはできないことになっていた。しかも教会の教えによって、夫も妻も性行為において快楽を得てはならなかった。これは非常に大きな難問を引き起こす逆説だった。  しかし古代ギリシアでは、夫は妻以外の女性と性的な関係をもつことは禁じられていなかった。家庭では快楽を求めるべきでない、快楽は家庭の外で、遊び女との間で求めるべきだとさえ考えられていたのである。  だからギリシアにおいて夫の性的な行為が問題となるとすれば、それは夫が家庭の主人であるということによるものだった。夫は家庭で妻や奴隷たちに権力を振るう。ギリシアでは権力を行使する者は、他者を支配する資格を示すことを求められた。その資格が自己の統治である。自己を統御できることを示すためには、性的な活動に関する自己の選択に制限を加えることが必要となる。夫が妻としか性的な関係を結ばないことは、妻に自分の権力を行使する最高の方法であると考えられたのである。ここにおいても性の問題は、他者との関係であるよりも前に、まず自己との関係であった。ここでは、本来の男女の関係としての性の問題は、ほとんど提起されていないのである。  最後に同性愛の問題系においては、近代のキリスト教社会では同性愛は自然に反した行為として厳しく禁じられた。多くの諸国で同性愛は、法律によって取り締まられる違法な行為であった。これとは対照的に古代ギリシアでは、快楽の客体、すなわち性の相手が男性であるか、女性であるかは問題ではなかった。問題だったのは、快楽の主体である。その主体が節度をもって行動するか、自己統御を忘れて快楽に耽るかという区別だった。  古代ギリシアの若者愛においては、恋する者と恋される者は、二人の恋愛を美しいものとするための〈口説きの技法〉を守らなければならなかった。そしてこの口説きは、力による征服ではなく、若者の愛を獲得するための開かれたゲームとして戦われねばならなかった。養生術と家庭管理術では、道徳的な問題は自己との関係に帰着するが、ここでは相互的な関係が生じているようにみえる。  しかしこれは他者との関係というよりも、二つの自己の関係である。恋する者は口説きのゲームのルールに従うことで、自己の統治を示さなければならない。恋される者も同じゲームにおいて、すぐに相手の意に沿わないという形で、節度を示さなければならない。この同性愛というゲームで争われるのは、双方が自己をいかに統治するかというゲームなのである。 †若者のアンチノミー[#「†若者のアンチノミー」はゴシック体]  このようにフーコーは、性と道徳の問題系を検討しながら、それがすべて自己の統治というギリシアの道徳の基本的なテーマに収斂することを示してきた。しかしフーコーがここで目指しているのは、ギリシアの性の道徳の歴史的な分析ではない。この性と道徳の問題の中で、若者愛というテーマが非常に特殊な意味をもっていること、そしてそれがギリシアからヘレニズムを経て、近代西洋にいたる道徳の系譜で非常に重要な意味を占めていることを示そうとしているのである。  フーコーは同性愛をめぐる倫理的な営みが、後世の道徳性と結びつくものでありながら、西洋の道徳性とはまったく異質な要素を秘めていることを明らかにしようとする。このことはフーコーにとっては、近代の西洋の基本的な道徳性を考え直すための重要な手掛かりとしての価値をもっていたのである。  キリスト教時代の性の道徳において、さらに道徳性一般において重要な役割を負わされていたのは、若い女性であった。ゲーテの『ファウスト』のグレートヒェンの像に象徴的に示されるように、道徳性を要求されるのは若い女性であり、純潔を守る必要があるのも若い女性であった。  しかしギリシアにおける性の道徳で中心的な位置を占めていたのは若い男性であった。その秘密をフーコーは、若者のもつ政治的な重要性と若者愛において若者が示す姿勢の和解しがたい矛盾にあると考えている。  自由人である若者は、将来は政治において人々を支配する地位に就くことになる。そしてギリシアにおいては、支配することは能動的な役割を果たすことであり、支配されることは受動的な立場に立つことである。奴隷は意のままに支配され、性の客体となっている。女性は受動的な立場に立つが、これは自然が決めたことであるから、道徳の問題とはならない。しかし問題なのは若者愛において、自由民である男性が、受動的な立場におかれるということである。これは大きな恥辱を受けることである。この男性が相手の言いなりになって性的な行為の客体となった場合には、この恥辱はさらに大きい。  古代ギリシアにおいては、若者は非常に苦しい立場におかれることになる。若者はまだ支配する地位にはないが、奴隷や女性とは異なる立場にある。若者が性の客体となることは、自由民としても、将来他者を支配するようになる者としても、道徳的にふさわしくないのである。これは解きがたい難問(アンチノミー)である。この道徳的な難問のために、ギリシアにおいては若者愛が〈問題〉として構成されていたのである。  もちろん解決策はある。この〈問題〉を解消してしまうのである——若者が性的に受動的な立場に立つことを禁じてしまえば問題はなくなる。これはクセノフォンが示した解決策で、彼はこれを恋(エロス)と友愛(フィリア)の対立として示した。若者との関係は、恋の関係ではなく、友愛の関係であるべきである。そうすれば難問は解決でき、老年になるまで友愛関係を続けることができる。  しかしこれは解きがたい紐を一刀両断するような解決策である。それに、当時の世論において若者愛が正当な行為として認められていたという実情が無視されてしまう。このアンチノミーを解消してしまわず、〈問題〉のままで解決しようとしたのが、プラトンである。  若者愛の難問は、支配する人間になるべき若者が支配されるということにあった。クセノフォンのように支配される客体となることを否定するのでなく、すなわち性的な交渉の可能性を否定することなく、若者が支配の客体でなくなる方法はないか——プラトンが探るのはこの可能性である。性的な行為において若者が支配の客体となることに問題があるのだから若者がエロス的な関係において主体となればよいのではないか。  若者が性的な交渉の可能性を否定せずに主体となる方法、それは若者が真理を目指す主体となることである。若者と成人男性の〈快楽の共同体〉は成立してはならない、それは明らかである。しかし若者は成人男性との間で、〈真理に向かう共同体〉を築きあげることができるのではないか。これは若者愛における二つの自己の制御、すなわち恋する者の自己の制御と恋される者の自己の制御を分離したままではなく、一つの目的に収斂させることである。  プラトンは『饗宴』で、若者愛から真理へと向かう修練を提案していた。恋する者は、美しい若者の身体をみて、一つの身体の美だけではなく、身体そのものの美に目覚める。次に身体の美だけでなくさまざまな美に目覚め、そしてついに美そのものに目覚めることができる。これがエロスによってイデアへの道、真理への道に進む方法である。ここではイデアにいたるためには、人はまず「若い頃に、美しい身体に向かって進んでいくことをもって始め」ることを求められる(39)。真理への道は若者愛からはじまるのである。  恋される者も、恋する者に対して無関心であってはならい。まず欲望を感じ、イデアに向かう「翼をもつ」必要がある。しかしこの若者が感じる欲望は、恋する者の肉体への欲望ではなく、恋する者の魂が真理へと向かうことに対する欲望である。恋される者は、真理へと歩みゆく恋する者を欲望し、そのことによってみずから真理へと進むのである。  ここには二つの自己統治のように分離した関係ではなく、若者と真理の〈師〉の間で恋の弁証法が成立している。フーコーはここで、性と道徳という倫理的な問題が、「自己による自己の認識の存在論」に転化されたと考える。ギリシアの文化において、若者が快楽の客体となることによって生じる難問は、恋の関係を真理への関係として構造化することによって巧みに解決できることをプラトンは示したことになる。  しかし立ち止まって考えると、この解決は両刃の剣であることがわかる。このプラトンの解決策は、身体と欲望を真理への意志で絡めとろうとするものだからである。このプラトンのエロス論では、性的な欲望とエロスの理論が、自己の認識論と真理への欲望の理論として提示されたわけだが、これはフーコーが『監視と処罰——監獄の誕生』で暴いた支配の方式の端緒となるものである。 『饗宴』のアルキビアデスは、自己を制御して彼の身体に手を伸ばさなかったソクラテス、若者を真理へと導こうとするソクラテスの虜となる。そしてこれほど自分が他者に隷属したことはなかったと述懐するのである。ソクラテスはアルキビアデスの身体によって快楽を味わうことをみずからに禁じたことによって、アルキビアデスの魂を支配したのである。魂を支配することによって身体を支配するというこの図式を、フーコーは「魂が身体の牢獄である」という表現で示していた。  このプラトンの真理への欲望の理論は、ギリシアにおける性と道徳の関係についての考察方式の一つの終焉を告げるものであった。ギリシアでは自己の欲望を制御する技術こそが道徳性であった。しかしプラトンを転轍点として、これからは自己の欲望を利用し、欲望を解釈し、真理へと向かうことが課題となる。自己の欲望とその真理を解釈するキリスト教的な道徳がここで予告されているのである。 †『自己への配慮』[#「†『自己への配慮』」はゴシック体]  このキリスト教的な自己の解釈学の方法を生のスタイルとして模索したのが、紀元一〜二世紀のローマ帝国の哲学者たちだった。ここでもギリシアと同じように、道徳は一つの規範として存在する以前に、みずからの生き方として構築された。  性《セクシユアリテ》の歴史のシリーズの三作目になる『自己への配慮』において、フーコーはこの問題を二作目の『快楽の活用』と同じく、自己の身体への配慮、夫婦の愛、若者愛というテーマで詳しく分析している。これらの三つのすべてのテーマにおいて、自己を道徳的な主体として形成していく手段である「自己への配慮」が、重要な位置を占めるようになる。  まず自己の身体への配慮のテーマにおいて、フーコーはこのローマ時代の自己への配慮という技術は、自己との関係という道徳的な問題であったことを指摘している。ギリシアの時代の「自己の統治」においては、自己を制御するのは、他者を支配する資格があることを証明するためであった。しかしローマという巨大な帝国においては、他者の支配という要素は重要性を失う。自己への配慮は、普遍的な人間性と実存の美学という見地から考察されるのである。  これをもっとも典型的に示しているのがエピクテトスである。このストアの哲学者は、動物は自然によって、生存に必要なものをすべて与えられていると考えた。世界の中で自足して生きることができるよう、神が配慮したのである。これに対して人間は、世界の中で自足して生きることがない。しかし何かが欠如しているからではなく、人間が自由に生きられるように、さまざまな能力を神から与えられたからである。  エピクテトスは、このような能力をそなえた人間は、自分の能力を気ままに行使するのではなく、自己について配慮し、陶冶することが必要であると考えた。自己に配慮することは、人間であることの特権であり、同時に責務なのである。  ローマ時代にはこの自己への配慮という技術に基づいて、性的な営みに対する制約がギリシア時代よりもはるかに厳しくなった。性的な快楽は、自己を押し流す強力な力であり、これを統御しなければならないと考えることに変わりはないが、ギリシアの時代よりも禁欲の重要性が強まった。  ローマの道徳論の重点は、「激烈で、不確定で、一次的な」性の快楽を追求することを避け、自己の陶冶のうちにそれよりも安定した快楽をみいだそうとする試みにある。これは自己への配慮を、一つの美学的な価値のある生き方に作り直していく試みだとフーコーは考える。  次に夫婦の愛というテーマについても、ローマ時代には人間の普遍的な能力と義務という観点から考えられた。ストア派にとって結婚は、人間が自分の能力を行使できるように、自然が与えた義務であった。人間は自己の自由を享受するためには、結婚という他者との共同体に入り、そこで自己の義務を果たすことが必要だと考えられたのである。  このためギリシア時代とは異なり、家庭における夫婦の関係が相互的な絆とみなされるようになった。権威をもって妻を支配するために、男性が自己を統治する必要があるのではない。妻に忠実であることは、他者との相互的な関係において、人間としての義務を実践する営みなのである。  キリスト教の道徳では、性の営みを結婚という枠組みの中に制限することは、自己の救済のための条件となる。しかしローマ帝政の初期においては、この結婚という絆は自己の修養の重要な手段とみなされている。姦通が問題であるのは、それが妻への裏切りである以前に、自分の生き方を点検した際に、自己の行いを恥じる要因となるからである。伴侶に忠実であることは、「自己を道理に適った存在であると誇りに思う」ことができるようにするためであり、実存の美学に適うからである。  第三の同性愛のテーマについては、ローマでは若者愛のアンチノミーは重要性を失っていた。フーコーはその理由について、この時代には自由民の若者が性の快楽の客体とならないようにするための制度的、法的な手段が確保されていたためであると考えている。家庭における夫婦の愛情の価値が高まるとともに、若者愛は「問題」ではなくなりはじめたのである。  たとえば若者愛に関するプルタルコスの対話篇では、愛の相手を男性とすべきか女性とすべきかが問われている。そして若者愛ではなく、夫と妻の関係に基づくことによって、人間のエロス的なありかたが統一できることが強調される。そして性の営みは、良心の不安なしに自己への配慮を行使できる夫婦という関係に限るべきだと結論されるのである。  フーコーは、ギリシアの時代には道徳の中心にあったのは男性だったが、この時代には男女が同じような重要性をおびると指摘している。男性も女性も、結婚前には純潔を守り、結婚してからは互いに貞節を守ることが「美しい生き方」となるのである。  ローマ帝政の初期に展開されたこの性の道徳においては、「さまざまな実践と鍛練を通じて、最終的に自己を享受できるようにすること」の重要性が強調された。自分が道徳的な主体であることを確認することによって、自己の生き方を美しいと思うこと、そしてその生の美しさを味わうこと、これがこの時代における実存の美学だったのである。 †道徳的な自己の吟味[#「†道徳的な自己の吟味」はゴシック体]  ストア派では、性にかかわる道徳だけではなく、生活の全般について厳しい「自己の配慮」を展開していた。フーコーは、このローマ帝政時代の道徳論を〈自己の吟味〉という概念で分析している。ここではこの問題について、コレージュ・ド・フランスの一九八二年度の講義「主体の解釈学」と、一九八三年の「自己のエクリチュール」という論文を手掛かりに考えてみよう。  ストア派では、自己の吟味には四つの技術があった——書簡、良心の点検、アスケーシス(禁欲)、夢の解釈である。  まず書簡という技術は、志をともにする者との間で、互いに自己の生活の細部を記述した書簡を交換するという方法で、自己を点検する。  第二の良心の点検は、行政官が在庫調べをするように、自己の行為に過失がなかったかどうかを調べる技術である。これは道徳的な判断をするためではなく、正しい行動の規則を想起し、確認し、こうした規則と比較して、自己の行為にずれがなかったかどうかを確認するために行われる。  第三のアスケーシスは、通常は禁欲と訳される言葉であるが、これはキリスト教のように自己の欲望を否定し、自己を放棄する禁欲ではなく、真の自己を認識することで、自己の統御を確立する方法である。このアスケーシスの目的はキリスト教のような救済ではなく、この現実の世界で正しく生きることである。身分の正しくないものを都市に入れないように見張る夜警隊のように、受け取った銀貨が偽物でないかどうかを調べる両替商のように、自己の表象や思考を調べることが必要なのである。  第四の夢の解釈の技術は、自分がみた夢によって、自分の将来を解釈する方法である。そのためには人は、夢を記録しなければならないだけでなく、夢の前後の出来事を記録しておかなければならなかった。毎日起こったことを、昼間の出来事についても夜間の出来事についても、書き留めておくことが必要となる。  これらのストア派の自己の解釈学は、自己の欲望の真理を解読することを目的とするものではなく、外的な規範に照らして自己を吟味するための技術であった。奴隷出身者(エピクテトス)と皇帝(マルクス・アウレリウス)という対照的な身分の哲学者を代表とする後期のストア派の哲学が目的としたのは、皇帝であっても自分に満足することなく、たとえ奴隷とされても絶望することなく、自分の魂の自由を確保できるように生きることであった。ストア派の自己の解釈学は、そのための生活の技術として考案されたのである。 †キリスト教の自己の解釈学[#「†キリスト教の自己の解釈学」はゴシック体]  これに対してキリスト教の自己の解釈学の目的は、自分の思考や表象のうちに隠れた欲望が潜んでいないかどうかを解読することである。たとえ純粋なもののようにみえても、われわれの思考は実は悪を起源として含むものではないか、大いなる誘惑者である悪魔が送り込んだものではないかと調べるのである。  キリスト教では、信仰の最終的な目標は、彼岸において救済されることだった。そして救済されるためには、汚れていてはならず、純潔でいなければならない。この純潔を確保するには、自己の欲望や汚れた思いを告白し、神の許しを得ることが必要となる。自己の真理を認識し、それを公的および私的に告白することが、救済のための条件となった。  このテーマを分析したのが第四巻の『肉の告白』であるが、この書はついに刊行されなかったので、その抜粋とされる「純潔の闘い」などの論文から、内容を推測してみよう。フーコーは生−権力について考察していた際には、この問題を司牧者権力の観点から分析していた。人々の告白を聞くという行為とそのためのメカニズムが、いかに人々を従属させるかという権力の観点から分析されたのである。  しかし実存の美学の観点からは、これが告白の技術とその影響という観点から分析されるようになる。初期のキリスト教においては、罪を告白する技術が二つあった。公式に罪を認め、悔悛する技術(エクソモロゲーシス)と、自己の思考を吟味して、そこに隠された欲望が混じっていないかどうかを調べる告解の技術(エクサゴレウシス)である。このいずれも、一人で行うことはできないことが特徴である。  島崎藤村の『破戒』やドストエフスキーの『罪と罰』が、他者の面前での告白の儀式を含むように、自己の隠れた欲望や罪の告白は、人々の面前で行わなければならない。キリスト教でも、自分の思考と意志のすべてを、他者に告白することが求められた。  このキリスト教で用いられた二つの告白の技術には共通性がある。それが完全な自己の放棄をともなうことである。悔悛の儀式(エクソモロゲーシス)では、罪深き悔悛者としての自己を演劇的に示すことによって、自己を完全に放棄する。この儀式を行った者は、自己の意志と欲望をそのまま維持することはできないのである。  四世紀以降の修道院で発展した新しい告解の儀式(エクサゴレウシス)では、告白を行う修道士は、〈師〉に対してすべてを告白し、その指示に完全に服従するという形で自己を放棄する。この技術では、自己の意志と欲望のすべてを告白し、他者の指示に完全に従うことによって、自分が意志と欲望を完全に放棄していることを証明するのである。  この四、五世紀のキリスト教の修道院で鍛えられた告白の技術は、フーコーの統治性のプロジェクトの到達点であった司牧者権力の構造を明らかにするものである。司牧者権力においては、司祭(羊飼い)は信徒たち(羊)の告白に耳を傾け、信徒たちは司祭にすべてを告白することで、キリスト教会の権力に服従した。  フーコーはこの権力が、構造的に二重の「自己の放棄」で支えられていたことを明らかにする。信徒たちは自己の秘密をすべて語り、司祭の指示に従うということによって、自己の内面の秘密と自律的な決定の権利を放棄する。司祭は信徒たちの救済だけを目的とすることによって、自己の救済をみずから求める権利を放棄する。しかし羊飼いも羊も、自己の放棄という方法によって、彼岸での救済を確保できるのである。  この自己放棄の実践を極限まで進めたのが、このキリスト教の告白の技術だった。この自己の〈真理〉を告白する技術は、その背後に、精緻なまでの自己の解釈学をともなっていた。告白するためには、自己の内面の動きを詳しく解読し、自己の心の秘密の真実を語ることが求められるからである。 †統治性のプロジェクトの新しい結論[#「†統治性のプロジェクトの新しい結論」はゴシック体]  これによって統治性のプロジェクトは、古代の自己の統治の技術からはじまる一貫した視点で貫かれることになった。フーコーが古代の自己の統治の技術の視点から統治性のプロジェクトを見直したことで明らかになった点をまとめてみよう。  まず、古代の道徳性のありかたは、通念として考えられているほど、キリスト教と異なったものではなかった。キリスト教と対照的に考えられている古代の道徳にも、キリスト教の道徳と共通した要素が存在する。『快楽の活用』では、それを自己の身体の管理、家庭の管理、若者愛という三つの顕著な側面で示した。  古代の道徳性がキリスト教と異なるのは、それが自己の解釈学という方法をとらず、自己の実存のための技法という方法をとることにある。古代の道徳は、自己の欲望の真理を探りだすことを目的とするのではなく、自己の実存の美学として、道徳的に生きるための技法である。  この実存の美学をキリスト教的な自己の解釈学に切り換える転轍点にいるのが、プラトンである。プラトンは若者の身体の美を愛する若者愛を、イデアの世界に到達するための自己の修練へと転換する方策を見いだしたことで、古代の道徳とキリスト教的な道徳を結ぶ位置にいるのである。真理への愛が、自己の修練として提示されている点では、プラトンはまだ古代の道徳性の圏域から逸脱していない。しかし真理への愛を魂の形而上学に結びつけた点において、プラトンは後のキリスト教的な道徳性と同じ構造を示しているのである(このプラトンの二面性のために、フーコーにとってプラトンはヤヌスのような二つの顔をもった哲学者となる。次の章で述べるように、最晩年のフーコーはプラトンに別の可能性をみいだしていた)。  プラトンから引き継がれたキリスト教の道徳は、つねに自己の欲望の解釈という形而上学的な方向に向かってきた。しかしプラトン以前においても、プラトン以後のストア派の哲学においても、自己の統治としての道徳性は、自己の解釈学とは異なるありかたをしているのである。  これはフーコーの統治性のプロジェクトの袋小路を突破する可能性を示唆するものであった。統治性のプロジェクトの最初の結論は、人々に死を与える生−権力の魔術を解くことはできないのではないかとおもわせた。道徳性がおのれの欲望の否定として提示されるようなキリスト教の自己の解釈学では、自己を問題とすることはそのまま道徳的な悪へとつながった。すべての人が自己を放棄し、他者のために生きることが求められるのである。これが統治の権力として構築されたものが、司牧者権力である。この権力は、他者の救済を目的としながら、自己の支配を貫徹するという異様な権力、自己の救済のために自己を放棄するという逆説的な権力である。  そして近代以降の国家の権力は、自己を放棄することを原則とするこの権力を引き継いだ。これが生−権力だった。これは生を目的とするようにみえながら、実は生者に死を命じる権力であるという「悪魔的な」あり方をする権力であった。  統治性のプロジェクトの新しい結論において、この生−権力を生み出した司牧者権力とは異なる道徳性の技術が提示され、同時にこの司牧者権力の構造的なからくりが暴きだされた。これによってフーコーは、この生の権力に対抗する可能性を提起することができるようになったのである。 [#改ページ]   【終りに】[#「【終りに】」はゴシック体]   真理のゲーム[#「真理のゲーム」はゴシック体] [#改ページ] †生−権力への抵抗の拠点[#「†生−権力への抵抗の拠点」はゴシック体]  統治性のプロジェクトの新しい結論で、生の裏側に死が貼りついたこの「悪魔的な権力」に抵抗するための二つの可能性が示された。フーコーが示した可能性の一つは、人々が自己を放棄しないこと、自己の欲望を断念しないことにある。しかも自己の欲望を解釈して、自己の欲望の〈真理〉を求めるという〈オイディプスの罠〉にはまらずに、自己の欲望が実現されるような世界に向かって、わずかながらでも自己と社会を変えていくことである。  フーコーは、知識人や哲学者の役割は、そのための手助けをすることにあると考えていた。あるインタビューでフーコーは知識人としての自分の役割を次のように説明している。 [#ここから2字下げ] 人々が、自分で考えているよりもはるかに自由なのだと教えること、人々が自明で真理だと信じているいくつかのテーマが、歴史の特定の時点に作り出されたものであり、このみかけの上での自明性は批判し、破壊することができるものだということを示すことです。人々の精神において何かを変えること、それが知識人の役割です(40)。 [#ここで字下げ終わり]  人々が真理だと信じているものが、実は歴史的な根拠から作り上げられたものにすぎず、普遍的なものでも、絶対的に正しいものでもないということを示すことによって、自明で見慣れたものと考えていたものを覆すこと、これはフーコーの終生の課題であった。 †真理のゲーム[#「†真理のゲーム」はゴシック体]  もう一つの道がある。それはこの真理の概念を解体して、それをゲームとみなすことである。この真理のゲームという概念は重要なので、ここでひとまず立ち止まって考えてみたい。フーコーはウィトゲンシュタイン経由でこの〈ゲーム〉という着想を得たようであるが、この〈ゲーム〉はスポーツだけでなく、政治、社会、経済などのさまざまな分野で展開され得るものである。そしてスポーツは基本的に得点を競うが、このゲームは〈真理〉を競うのである。  フーコーは、この真理のゲームが成立するには、次の四つの要素が必要であると考えている。第一は主体の条件である。この真理のゲームに参加するためには「主体はどのようなものでなければならないか、主体はどのような条件に従うか、主体はどのような地位を占める必要があるか」。フーコーはこれを〈主体化の様式〉と呼ぶ(41)。第二は行動の戦略である。このゲームにおいて主体は、どのような知を〈真理〉として構成し、それを〈真理〉として確信するのか。第三の歴史的な条件では、歴史的な背景のもとで、「どのような条件において、ある対象が知の対象となりうるか」を問題とする。これは〈客体化の様式〉と呼ばれる。第四はゲームの利得である。主体は真理を獲得したと考えることで、どのような満足と権力を獲得するか。  このように、この〈真理のゲーム〉という概念は、これまでのフーコーの営みを総括するような意味をもつものである。フーコーは実際に自分の思考の軌跡をふりかえって、それが真理のゲームの分析として総括できることを確認している。『狂気の歴史』『臨床医学の誕生』『監視と処罰』は、人間が知の客体となる条件を、真理の〈客体化の様式〉の観点から分析したものである。また『言葉と物』は、語り、働き、生きる主体としての人間についての知が成立する条件を、真理の〈主体化の様式〉の観点から分析したものである。  この〈真理のゲーム〉という視点で特に重要なのは、これが真理の複数性を想定していることである。フーコーは〈真理への意志〉の理論によって、真理とは権力的な関係において成立するものであることを明らかにした。そしてこの〈真理のゲーム〉の理論では、複数の真理の審級が同時に存在しうることを示す。  こうした真理の複数性は、われわれの生活において日常的に成立しているのである。たとえば科学的な命題の真理性と、ある科学的な手段を採用した場合の環境と生活への影響についてのエコロジー的な命題の真理性は、異なる審級のものとして同時に存在することができる。科学的な命題の真理を定めるゲームのルールに対して、つねに異なる真理のルールを定めることが可能なのである。  真理だけでなく、権力もまたゲームとしての性格をもっている。フーコーは権力を、他者との力関係の場において、相手の行動を変えていく可能性として定義する。この開かれた戦略的なゲームにおいて、物事が逆転される可能性があるところで、たとえば性的な関係やさまざまな愛の関係において、自分の力を使ってみる——それは悪ではなく、「愛や情熱や性的な快楽に属する事柄」なのである。そしてこのゲームが開かれれば開かれるほど、他の人の行為に影響を及ぼしたいという誘惑は高まる。ゲームの開放性に比例して、この誘惑はますます魅力的になり、人の心を奪い、人の欲望をかき立てるようになる(42)。  フーコーは、他者との関係を変えていくことが一つの権力関係であることを認めながら、そこに愉しみをみいだそうと誘っている。社会はそこからしか変わっていかないと。 †パレーシア[#「†パレーシア」はゴシック体]  この〈真理のゲーム〉を哲学的な実践として展開したのが、晩年のフーコー(〈最後のフーコー〉と呼ぼう)が練り上げたパレーシアという概念である。このパレーシアという概念は難解であり、フーコーの晩年の講義録が発表されていないので、断片的にしかつかめないのだが、これは〈最後のフーコー〉にとってもっとも重要な概念だった。 「真理を語る」という意味のパレーシアという語は、古代ギリシアにおいては、自分の信じたことを語る権利であり、自由人のありかたそのものを指していた。自由人とは、真理を語る者である——これがギリシア人の自由人の重要な定義である。自由人は奴隷ではなく、支配を拒むものであり、この資格において、真理を語る権利があるのである。古代ギリシア人にとっては、ポリスから追放されることは、政治的な問題に関して自分の思うままを語る(パレーシア)権利を失うことだった。  フーコーが描いている典型的なパレーシアステース(真理を語る者)の像は、プラトンとクレオンである(43)。プラトンは政治家を哲学者にするという自分の理念を実現するために、シラクサの僭主ディオニュシオスに招かれて顧問となる。しかし若い王はプラトンの望む哲学王になるつもりはない。その時にプラトンは、奴隷に売られるという危険を犯して王を諫める(後に実際に奴隷に売られるのである)。  またソポクレスの悲劇『オイディプス王』では、オイディプスは義弟のクレオンが自分の地位を奪おうとして、予言者のテイレシアスと共謀したと難詰する。それに対してクレオンは、「まずはデルポイの社におもむいて、わたしがあなたにお伝えした神託が、真実ありのままのものか否かを、たずねられよ。そして次に、わたしが予言者と謀《しめ》し合わせて、何か企らんだかどうかをお調べなされ。もしそういう事実をつかむことができたなら、どうぞそのときはわたしを捕えて、殺してくだされ。その死刑の判決には、あなたひとりだけでなく、わたしもすすんで一票を投じよう」と答える(44)。  僭主の脅迫にもかかわらず、奴隷に売られる危険や死刑になる危険性を冒して真理を語ること、これがフーコーのパレーシアである。死の数カ月前までフーコーは、コレージュ・ド・フランスでこのパレーシアの理論について講義を続けていた。 〈真理を語る者〉は、「絶対的な真理」を語ることを生命を賭けて義務としているのではない。フーコーは時に、権力に抗して真理を語るという側面を強調するので誤解を招きやすいが、パレーシアステースが語るのは「普遍的な真理」ではないと考えるべきだろう。〈最後のフーコー〉が考えていたのは、真理を語るということは、「真理のゲーム」に参加することを意味するということだった。すでに述べたようにフーコーは、哲学のつとめは真理が自明なものでも普遍的なものでもなく、歴史的に作られたものであることを暴露することによって、その真理の絶対性を崩壊させることにあると考えていた。絶対的な真理が存在するのではなく、個々の真理は自由な主体の行為としてしかあり得ないと考えると、すべての主体は自分なりの真理の確立に参加することができる。そこでは真理は一つのゲームとして機能しているのである。 †自由の哲学[#「†自由の哲学」はゴシック体] 〈最後のフーコー〉は、パレーシアと真理のゲームという概念が、社会と人々の関係を作り替えていく可能性を秘めたツールになると考えていた。このいずれも、プラトン以来の真理の理論や魂の形而上学の理論とは異なる古代の道徳性の可能性を生かしたものであった。フーコーにとってパレーシアとは、真理を語ることをみずからの生活のスタイルとする実存の美学の行為そのものを意味していた——形而上学的な真理を語るのではなく、真理のゲームの中で、「別の真理」を語ること。そのことによって普遍的なものと信じられている真理の自明性を揺るがし、真理の歴史性を暴露すること。  フーコーはこれが、人々が社会における支配の関係を少しでも望ましい方向に変えていく可能性を確保する道だと信じていた。フーコーにとって哲学とは、政治的、経済的、性的、制度的な支配など、さまざまな次元でさまざまな形で現れる「あらゆる支配の現象(45)」を問題とすることだったのである。 [#改ページ]    注   序[#「序」はゴシック体] [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ] (1) "Qui etes-vous, professeur Foucault ?", Michel Foucault, 'Dits et Ecrits', vol. 1, 1994, p. 606[以下では 'D/E'-1 : 606 のように略記する]。 [#ここで字下げ終わり]  第1章[#「第1章」はゴシック体] [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ] (2) (Sans titre) 'D/E'-1 : 297. (3) Sur les facons d'erire l'histoire, 'D/E'-1 : 595. (4) Le pouvoir, une bete magnifique, 'D/E'-3 : 369. (5) La recherche scientifique et la psychologie, 'D/E'-1 : 138. (6) M. Foucault. Conversation sans complexes avec le philosophe qui analyse les "structures du pouvoir", 'D/E'-3 : 672. (7) 『精神疾患と人格』は絶版で入手できなかったので、この部分はバーナウアー『逃走の力』(中山元訳、彩流社)の付属文書1による。 (8) Ludwig Binswanger, 'Le Reve et l'Existence', Desclee de Brouwer, 1954, P. 184. (9) Ludwig Binswanger, op. cit., p. 187. (10) Une interview de Michel Foucault par Stephen Riggins, 'D/E'-4 : 526. [#ここで字下げ終わり]  第2章[#「第2章」はゴシック体] [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ] (11) Le pouvoir, une bete magnifique, 'D/E'-3 : 369. (12) 大百科事典、平凡社、一九八五年版の第一二巻のピネルの頃の解説である。 (13) 'Maladie mentale et psychologie', PUF, 1962, p. 87. [#ここで字下げ終わり]  第3章[#「第3章」はゴシック体] [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ] (14) サルトル「文学とはなにか」(『シチュアシオン㈼』白井健三郎訳、人文書院、一九五九年、一九二頁)。 (15) セルバンテス『ドン・キホーテ(正篇)』会田由訳、集英社、一九七九年、二一頁。 (16) Didier Eribon, 'Michel Foucault', Flammarion, 1989, pp. 183-4. [#ここで字下げ終わり]  第4章[#「第4章」はゴシック体] [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ] (17) Entretien avec Michel Foucault, 'D/E'-4 : 81. (18) Ibid., p. 79. (19) La verite et les formes juridiques, 'D/E'-2 : 545. (20) 'De la gouvernementalite, Editions du Seuil, 1989. (21) 『軍隊/兵士』岩波書店、一九八九年による。ただしカタカナをひらがなに書きかえた。 [#ここで字下げ終わり]  第5章[#「第5章」はゴシック体] [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ] (22) Les anormaux, 'D/E'-2 : 827. (23) 'De la Revolution ・la Grande Guerre, Histoire de la Vie Privee', vol. 4, Seuil, 1987. (24) Carolyn J. Dean, 'The Self and Its Pleasures', Cornell University Press, 1992. (25) 手塚富雄『ヘルダーリン 上』、中央公論社、一九八五年、一六一頁。 (26) Le jeu de Michel Foucault, 'D/E'-3 : 299. (27) Ibid., p. 300. [#ここで字下げ終わり]  第6章[#「第6章」はゴシック体] [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ] (28) J. Habermas, 'Der philosophische Diskurs der Moderne', Suhrkamp Verlag, 1986. (29) Foucault etudie la raison d'Etat, 'D/E'-3 : 802. (30) Faire vivre et laisser mourir : la naissance du racisme, 'Les Temps Modernes', fevrier 1991, p. 52. (31) Ibid., pp. 55-6. (32) Simone Weil, Reflextions sur la guerre, 'Ecrits historiques et politiques', Gallimard, 1960, pp. 233-4. (33) Securit・territoire et population, 'D/E'-3 : 722. (34) "Omnes et singulatim" : vers une critique de la raison politique, 'D/E'-4 : 139. (35) Ibid., p. 161. [#ここで字下げ終わり]  第7章[#「第7章」はゴシック体] [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ] (36) De l'amiti・comme mode de vie, 'D/E'-4 : 163. (37) Le retour de la morale, 'D/E'-4 : 705. (38) Entretien avec M. Foucault, 'D/E'-4 : 293. (39) プラトン『饗宴』山本光雄訳、プラトン全集三、角川書店、一九七三年、二一六頁。 [#ここで字下げ終わり]  終りに[#「終りに」はゴシック体] [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ] (40) Verite pouvoir et soi, 'D/E'-4 : 778. (41) Foucault, 'D/E'-4 : 632. これはフーコーがPUFの『哲学者辞典』にペンネームで書いた一種の自己紹介文である。 (42) L'etique du souci de soi comme pratique de la libert・'D/E'-4 : 729. (43) フーコーの一九八四年一月のコレージュ・ド・フランスでの講義の録音テープを起こしたドイツ語版テクスト 'Das Wahrsprechen des Anders', Materialis Verlag, 1988と、一九八三年のカリフォルニア大学バークレー校の連続講義の記録である 'Discourse and Truth : The Problemafization of ・', 私家版、1983. による。 (44) ソポクレス『オイディプス王』藤沢令夫訳、岩波書店、一九六七年、五三−四頁。 (45) L'etique du souci de soi comme pratique de la libert・'D/E'-4 : 729. [#改ページ]  あとがき  フーコーは変わり続けました。自己を変えていくことを思考の方法としていたように思えるほどです。このためにフーコーが一貫して追求してきたテーマと思考のモチーフが、みえにくくなっています。  たとえば、フーコーが晩年になって実存の美学という道徳的な方向に進んだことについて、フーコーがそれまでの思考方法を転換したものだという見方があります。しかしこれはフーコーの思考の一貫性を見逃すものだと思います。フーコーは、『言葉と物』や『知の考古学』の知の枠組みの分析というプロジェクトに限界を感じて、道徳的な問題を重視するようになったわけではないのです。  フーコーが目指したのは、現在のわたしたちがおかれている状況を批判して、新しい可能性を拓くという哲学の本来の課題を追求することでした。人間科学の分析も、『言葉と物』における考古学の方法も、晩年の実存の美学も、どれもおなじテーマを別の形で展開したものです。本書では、フーコーの思考において一貫していたこの哲学的なモチーフを明らかにすることを目的としました。  なお、フーコーの展開した概念群は非常に豊穣なもので、本書ではその一部しか紹介できませんでした。本書で取り上げることができなかった問題については、インターネットのホームページで論考を発表するつもりです。さらに晩年のパレーシアの概念についての未公刊の資料も紹介したいと考えています。アドレス (URL) は http://nakayama.org/polylogos/ です。本書に関するご意見や質問なども、こちらにお寄せいただければと思います。  本書で引用したテクストは、注で明記したものを除き、すべて原文から訳し直しました。参考にさせていただいた翻訳の訳者の方々に感謝いたします。  最後になりましたが、フーコーの四冊の著作集が発売された直後にパリで購入して、日本まで運んでくださった碓井麻里子さん、インターネットのメーリングリストでの筆者の照会に応じて、未公刊のフーコーの講演記録を送付してくださったメリーランド州のモーガン州立大学の Joanna Crosby さん、入手しにくいフーコーの翻訳文献を提供してくれたフーコー研究会の仲間たち、フーコー論を書くことを強く勧めてくれた故・住吉彰人さん、はげましという〈糧〉を与え続けてくれた三谷まりさんに感謝します。  特に、長いマラソンのような執筆の間を通じて、筆者につねに的確な指示を与えながら伴走していただいた筑摩書房の井崎正敏さんに、心から感謝いたします。  これらの方々のはげましと支援なしには、この本は生まれていなかったと思います。  どうもありがとう。 中山元(なかやま・げん) 一九四九年生まれ。東京大学教養学部教養学科中退。哲学者、翻訳家。主な著書に『思考の用語辞典』『〈ぼく〉と世界をつなぐ哲学』『新しい戦争?』のほか、フロイト『自我論集』、フーコー『真理とディスクール』、バタイユ 『呪われた部分 有用性の限界』、デリダ『パピエ・マシンなど多数の翻訳書がある。インターネットの哲学サイト『ポリロゴス』を主宰。 本作品は一九九六年六月、ちくま新書の一冊として刊行された。 なお電子化にあたり、図版は割愛した。